2014年10月27日

神仏は妄想である。505

ここまで書いてきて、すでに嫌になった人もいるだろうが・・・
必ず、面白い発見があるはずだと、思う。

ナーガールジュナはこのプラサンガといういわゆる「破邪」の論法によって、当時の諸学派によって議論されていた種々の哲学的問題を縦横自在に批判したのである。
中村 元

プラサンガとは、自説を主張することなく、論敵にとって、願わしからざる結論を導き出すことである。

自説を主張せずに、論敵を批判するという、あくどさ、である。

そして、簡単に言えば、すべては、「空」なのだということ。
つまり、自説を主張しないが・・・
すべては、空、という観念に行き着くのである。

だから、結論を見ているので、続けられる。

もし本性として存在することがあるならば、それが非存在となることはないであろう。本性が変化することはけっしてありえないからである。15・8

もし本性がないならば変化というものはなにものの変化であろうか。しかしもし本性があるとしても変化というものはなにものの変化であろうか。15・9

ここで本性といわれているものは本体のシノニムである。
専門家

もし本体というものに第一義的な存在性を与えると、ものの変化というものが説明できなくなる。それでは、なによりも無常を特徴としている事実の世界は無視されてしまう。
専門家

ルジュナが、思惟一般というものが、事実の背後に本体を想定せざるを得ないかをよく理解している。
例えの例では、
変化する火という事実をわれわれが概念的に理解しようとするときには、それを変化しない本体に比較しなければならない。変化性は自己同一性に対比されてはじめて意味をもってくるからである。
専門家

以下は、簡単に、言う。

すべての概念というものは、それを限ることにより、それ以外のものを、排除する。
ある概念の意味とは、その矛盾概念の否定に尽きるので、積極的な、自己自身の内容をもつのではない。

変化は、自己同一性の否定であるだけ。
後者は、前者の否定であるだけである。
そして、変化を理解するために、自己同一性を設定するが、それで持ち出された、自己同一性は変化と矛盾する。

それが、人間の概念的思惟は、本来的に誤謬なのである。
と、ルジュナは、言う。

宗教も、概念の代物である。
ちゃかす訳ではないが・・・

その概念を設定すると、他宗教を否定するほかに無いのである。

それは、弁証法でもない。
弁証法ならば、まだ救われるが・・・

破邪というのが、いい。
破邪を掲げて、自説を説く面々の多いこと。

「中論」では、因果関係の否定が多々見られる。

その因果の関係も、分析の仕方に、幾つもある。
中論では、
原因と結果との間に同一性と別異性もない、というかたちで因果関係を否定するものである。
専門家

結果にとって原因は自己と同一なものであるか、別異なものであるかを考察するとき、この二つの選言肢を原因は結果の自体・他体・その両者・両者のいずれでもないもの、という四つにふやしてそのすべてを否定すれば四句否定になる。
専門家

しかし、まあ、因果関係を否定すると言うのは、仏陀の教えを否定しているようであるが・・・

違う。
要するに、「空」を説明しているのである。

すべては、空、である。

空というものが、これほど、難しい、小難しい理屈に至るという、インド人の思索というか、拘りというか・・・
呆れる。

ものは、いかなるものでも、どこにあっても、けっして自身から、他のものから、自他の二つから、また原因なくして生じたものではない。1・1

自身からの生起ということをその最も素朴な、原理的な形態に返したうえで批判しているのである。
専門家

勿論、どこかの、派閥に対しての批判である。
それらを、説明すると、ますます、解らなくなるので、省略する。

あるものが他のものによって生ずるとき、前者は後者と同一でないし、また異なるのでもない。だから断絶しているのでも恒常なものでもない。18・10

原因と結果とが同一であることはけっしてありえない。また原因と結果とが別異であることもけっしてありえない。20・19

原因と結果とが同一であるときには生ぜしめられるものとが同じになってしまうであろう。けれど原因が別異であるならば、原因は原因でないものと同じになるだろう。20・20

因果という主題を経験的な立場で考えるのではなくて、本質的な立場で考える。原因・結果というものを本体としての存在と仮定すると、それは単一独立、恒常的な本性であることになる。そうすると原因と結果との関係は同一であるか、別異であるかという二つの選言肢しかありえない。本質が一部分はこうである、というような特称命題は成立しないからである。
専門家

原因そのものでいえば、原因は結果と同一の本体か、結果と異なる本体からの、いずれしか、もちえないが、そのいずれの場合も、因果関係を説明できない。

更に、原因が同一と別異の、複数の本体をもつことは、不可能である。

それは本体は単一であるという前提にそむくうえに、本質の世界において矛盾した、二性質の同一物における、共存を許す誤りになるから。

このように吟味して、ナーガールジュナは、原因にせよ、結果にせよ、それは本体の空なるものである。もし本体をもつならば、原因としても、結果としてもなりたたないし、それらの間の因果関係も成立しない、ということである。
専門家

自説は、「空」の思想だったのか・・・

これは、神仏は妄想である、という、エッセイである。

このようにして、徹底的に、議論、論破しても、それが、妄想であると、私は言う。
人間の、妄想は、留まることを知らない。



posted by 天山 at 07:01| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。