2014年10月24日

神仏は妄想である。503

滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来たりもせず、去りもしない依存性は、ことばの虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた。その説法者の中の最上なる人を私は礼拝する。
ナーガールジュナ

中論の冒頭である。

依存性とは、縁起のことを言う。
まず、否定から始まる。

般若経も、それらの否定の言葉が多い。

これらの否定句は、「ことばの虚構を超越し、至福なる」ということばと並んで、依存性を形容している。したがって、一でもなく多でもない依存性がブッダの教えの本質であり、「中論」はその教えを継承するものだ、とナーガールジュナはここで表明しているわけである。
専門家

確かに、行き過ぎは、駄目だと、仏陀は言った。
それが、後に、中道という言葉になるが。

一でもなく、多でもなく・・・
ことばの虚構を超越し・・・

依存性は、至福のものである。
つまり、縁起は、至福のもの・・・

縁起とは、ものが必ず原因によって生起することを意味する。
専門家

ものが原因・条件によって生じることであるから因果関係と理解すれば、原意に近い。
専門家

因果関係は、至福のもの・・・
ことばの虚構を超越した、因果関係は、至福のもの・・・

経典にあらわれる十二支縁起は迷いと苦しみの人間的生存の因果の系列を追及して、根本的な原因として無知と渇愛を見出したものである。人が善い行為をして好ましい環境を、悪い行為をして苦しみの結果を得るのも縁起である。また稲の種子から稲の芽が生じるというのも縁起である。こういう意味では、縁起はまずなによりも自然や人間存在における因果関係をさしているわけである。
専門家

そして、その因果関係を、延々として、説き続けるというインド人の面々である。

古代インドでは同時因果ということがよくいわれる。
専門家

例えば、布とそれを構成している、糸の関係・・・
糸は原因で、布は結果である。

こんなことをやってると、人生は、無常迅速なので、すぐに終わってしまうだろうに・・・

ただ、ルジュナが、仏陀の教えだと、言うことが、問題である。
何故、私は言うのであると、言わないのか・・・
仏陀の、権威を頼るのである。

仏典のすべてが、勝手な言い分でも、仏陀が説いたことである、となる。

大乗仏教の経典は、すべてが、創作であるのに、仏陀が説いたものである、と言う。

さて、面白いのは、無関係、無関心な共存をも、因果であると、言う。

心と心作用、地・水・火・風という物質元素、すべての作られたものと生・往・異・滅という相状などはつねにグループをなして生起・存在する。その関係は俱有因―士用果という因果関係で説明されるが、それらは相互作用または実体と属性の関係であるといってよい。
専門家

因果とは、縁起である。
彼があれば、此れが有る。

それが、何故、ことばの虚構を超越した依存性は、至福なのか・・・

すると、今度は、縁起の語義解釈である。
それは、専門家に任せる。

よく理解すれば、人間は、縁起により、生きて、生きられる。
つまり、それにより、生かされて生きる。

論破し、破邪するために、説かれたものであるが・・・
私が、解釈すれば、もし、仏陀がそれを説いたのなら、依存性のない人生は無いということである。

それは、言葉の虚構を超越している。
だから、至福なものである。

知を否定しつつ、無知を糾弾するという、悪態。
瞑想の神秘的直観を肯定し、そこからの知識を重んじるが、その知識も、空であるという、悪態。

知ることは、素晴らしいが、知り過ぎると、駄目。
傲慢になる。

合理性と神秘的直観の知識を得ても、駄目。
それだけに、自閉した、上座部仏教は、堕落した。
生きるに、堕落した。
我のみ救われると考えたからだと、大乗は言う。

そして、大乗教徒は、人を救う、利他行こそ、仏の教えたことと言う。

これは、どっちも、どっちである。
利他行は、貴いことである。
だが、それが、教えになると、堕落する。

行為にしか、方法は無いのである。

だから、上座部も正しく、大乗も正しい・・・
しかし、教えを説くから、堕落する。

人間は、少しばかりの、知識を得ると、満足し、納得する。
教義を学ぶ人は、何となく、何かが解った気になるのである。

そして、それが、唯一だと、思い込むと、堕落する。

それは、単なる妄想の徒になるだけである。

神仏は妄想である・・・



posted by 天山 at 06:58| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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