2014年10月09日

霊学184

存在の包括的意味が無常なものの中や個々の事物の中にあるのではない、ということを人間は知る。彼は無常なものを永遠なる調和的統一の「比喩」と模造として考察する。彼はこの統一を畏敬と崇拝との中で仰ぎ見、この統一のために宗教的祭祀を行なう。
シュタイナー

上記も比喩である。
突然、宗教的祭祀・・・

大乗仏教の間で、空というものが、議論された。
それらは、シュタイナーを超えている。

無常なものを、永遠なる調和的統一の・・・
当然である。

それらは、空であり、因果であり、縁起である。

統一というのは、正しい。

「霊界」では、残照ではなく、生きた思考存在として、その現実の形姿が現れる。人間はここでは、地上で崇拝の対象だった統一性と本当にひとつになることができる。宗教生活やそれと関連したすべての事柄の成果がこの領域の中に現れてくる。
シュタイナー

正しいことと、誤りがある。
生きた思考存在・・・
統一性とひとつになる・・・

そして、宗教生活云々・・・
これは、違う。
宗教に囚われた者は、先に進めない。
もし、そうであれば、宗教の信仰は、寛容で、抱擁的である。

キリスト教の元にシュタイナーは、生活していたはずである。
それならば、特に、宗教性というものが、霊界の障害になることを、理解していたはずだが・・・

人間は自分の霊的経験から、個人の運命と個人の属する共同体とを区別すべきでないと認識することを学ぶ。
シュタイナー

それは、霊界にて、学ぶのではない。
この世にて、この次元にて、学ぶのである。

自分を全体の一員として認識する能力はこの領域で形成される。
シュタイナー
違う。
この世で、形成される。

宗教的な諸感情、高貴な道徳を求める純粋な努力のすべては、霊界における中間状態の大半の時期に、力づけをこの領域から受け取るであろう。そして能力を向上させつつ、この方向に沿って、ふたたび人間はこの世に生をうけるだろう。
シュタイナー

何と説明すれば、いいのか・・・
今まで、書き続けてきたものを、読み返しても、繰り返し繰り返しである。

突然、ふたたび、人間は、この世に生を受ける・・・

勿論、否定はしない。
それが、シュタイナーの見ている、霊界であるからだ。

「霊界」の第三領域は魂界の原像を含んでいる。
シュタイナー

また、始まるのである・・・

魂界に存在する一切がこの第三領域の中で、生きた思考存在として現れている。欲望、願望、感情等の原像がここに見出される。しかし霊界のこの領域では、如何なる種類の利己的欲求も、その魂には付着していない。
シュタイナー

霊界では、我と他と、同じ存在になるのである。
一々の説明は必要ない。
すべての物と、同一化する。
それが出来るのが、霊界なのである。

利己的と言う言葉が、出てくる程、シュタイナーの霊界の領域には、段階があり、それは、物質の霊界だからである。

要するに、モノの霊界なのである。
植物、動物、そして、人間の霊界として考えることは、出来ない。

他人の欲望、願望と自分の欲望、願望とは区別されない。大気が地球をとりまいているように、すべての存在の感情と情緒は、一切を包括するひとつの共通世界なのである。
シュタイナー

当然である。
一つの欲望は、皆の欲望となり得るから、霊界の中に、そのような段階があるのである。
欲望を離れられない魂は、同じように、それらの魂と一緒に在る。


第三の領域が、霊界の大気であるらしい。

そして、
ここでは、人が地上で社会のため、隣人のため、没我的態度で奉仕したときの一切の行為が、実を結ぶのである。
シュタイナー
と、いうことだ。

おかしい・・・

没我的態度とは、無私の行為である。
それは、実は、霊界の本来の姿である。

シュタイナーの言う、没我的態度とは、この世で、その成果を見、そして、評価された人のことであろう。

次に、純粋の霊界という、第四領域の話になるのだが・・・
一体、純粋の霊界という、その意識は、何か。
第三領域までは、純粋ではないのか。

大気のような霊界が、第三領域ということか・・・




posted by 天山 at 06:23| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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