2014年10月08日

霊学183

シュタイナーの霊界を、見ている。
説明しなくてもいいことまで、説明し尽くすようである。

また、そこから、誤りも、見られる。
勿論、信じた人たちは、誤りなどに、気づかないだろう。
信じる者は、騙されるからである。

「賢者」はすでにこの世の生活の中で、他の者が死後体験するところのものを、
すなわち自分自身が一切万物と同質のものだという思想を、「これは汝に他ならない」という思想を、自分のものにしているのである。
シュタイナー

松尾芭蕉は、霊能者でなくとも、松のことは、松に、竹のことは、竹に聴け、と言うのである。
ここで言う、賢者とは、誰のことか。

更に、賢者とは、何かである。
要するに、霊能力、シュタイナーの言い方をすれば、見者ということになるのだろう。

この思想は地上生活においては思考生活の努力目標であるが、「霊たちの世界」においては、霊的経験を通してますます明瞭になるひとつの直接的事実なのである。
シュタイナー

この、地上生活という言葉も、実は、おかしい。
霊界は、地上生活ではないのか・・・
霊界には、地上とか、天上とかの世界は無い。

この地上も霊界である。
霊界の一部である。

地上生活において影のような思想として把握されていたもの、すべての叡智の目標であったものが「霊界」においては直接体験される。というよりも、霊的存在においてひとつの事実であるからこそ、それが地上生活の中で思考される。
シュタイナー

だから、地上も霊界の一部なのである。

彼の言う、領域が断絶しているのではなく、境界が曖昧だというのは、この地の生活、思考も、霊界の思考に、関与しているのである。
と、いうより、幽界などは、そのまま、この世に影響している。

このように、人間は霊的に存在するとき、地上生活におけるときの状況と事実とを、高次の立場から、いわば外から、観る。その際、「霊界」の最下位の領域にいる人間は、物質的身体的現実と直接係わるような仕方で、地上生活と向き合っている。
シュタイナー

これも、説明が曖昧である。
高次の立場・・・
外から、観る・・・
違う。
両方の立場からも、観ることが出来るのである。

それこそ、霊眼である。

そういう状態を嫌ったのが、仏陀である。
つまり、それにより、魔界関与に引きずられるからである。
特に、その場所によるが、魔界関与を受けると、誤る。

この世の生活の中で、その能力は必要無いと、仏陀は、考えた。

この世でともに生きてきた人々には霊界でも再会する。肉体を通して獲得してきたすべてが魂から離れ落ちるように、地上生活において魂と魂とを結び付けていた絆も、物質界でのみ意味や効力をもっている諸制約から解放される。しかし死後、霊界の中においても、地上生活での魂と魂との係わりはすべて存続し続ける。物質的状況を表現する言葉は、地上で暮らした魂同士は霊界で再会し、かつての共同生活を霊界に相応した仕方で継続する。ということはまったく正しいであろう。
シュタイナー

違う。
勿論、縁ある魂同士は、会うことは、会うが・・・

真っ当な霊界ならば、それぞれの世界がある。
全く、会わない関係もある。

我が魂の修行を優先させるため、一人は、独りである。
魂として、存在する。

会うことにより、我が身の修行が向上するのであれば、会わせて頂けるのである。
それは、一魂の願いではなく、高次の霊の介入が必要である。

シュタイナーは、突然のように、霊から、魂という言葉を使う。
日本には、霊魂という言葉がある。
霊と魂とを、区分けて考えないものである。

だが、シュタイナーは、それらを明確に、区分けしたはずである。
どうして、突然のように、魂が、出てくるのか・・・

魂界は、魂界での、役割で終わったはずである。

第二の領域は地上での共通の生命が思考存在として、いわば「霊界」の液体成分として流れている場所である。
シュタイナー

これも、比喩であろう。

肉体をもった人間が世界を観察する場合、生命は個々の生物と結び付いた仕方で現象する。霊界ではしかし、生命は個々の生物から分離され、生命の血として、いわば霊界全体を循環する。それは霊界の一切の中に存在するところの生ある統一体となっている。この世ではただその残照だけが人間に現象し、それは世界の全体、統一、調和に対して人間が抱くあらゆる形式の畏敬として現れていた。
シュタイナー

それは、シュタイナーの霊界であろう。
霊界も、あらゆる世界が存在する。

このような、説明に迷うことになる、シュタイナーの論述である。
真っ当に、シュタイナーを理解出来るのだろうか。

人間の宗教生活はこの残照に由来するのである。
シュタイナー

宗教を超えたような言い方であるが・・・
もし、宗教生活を主にしていた人、その魂ならば、幽界で、動かないでいる場合、多々あり。

上記の有り様が、宗教生活の残照というならば、宗教生活とは、あまりに強引である。更に、その祈り、そして、霊性などは、まやかし、になるのである。

それは、宗教に、迷うという、言い方も出来る。



posted by 天山 at 06:52| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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