2014年10月07日

霊学182

人間の霊は死ぬ度毎に、繰り返してこの霊の国に生きなければならない。
シュタイナー

輪廻転生である。
キリスト教では、それを認めていないせいか・・・
この輪廻の話が、また、くどいのである。

人間の創造活動の建築家である霊もしくは高次の自我は、「霊界」の中で、霊界の法則に従って、能力を身に付け、目標を知り、そして地上の世界のためにそれを役立たせるのである。
シュタイナー

シュタイナーは、この世も、霊界とは、認めていないようである。
この世は、霊界に含まれてある。

地上の世界・・・
この世が、霊界に含まれているから、彼の理論が生かされるはずなのだが・・・
もし、断絶していれば、関わることは、無理である。

肉体に宿る人間の霊は、繰り返して自分の世界(霊界)に滞在するのでなければ、この世の現実の中で霊的存在であり続けることはできないであろう。
シュタイナー

この世を、現象の世界と捉え、霊界を実相の世界と捉える、考え方がある。
もし、霊的存在を認めるならば、上記のことは、当然過ぎるほど、当然である。

比喩など用いる必要も無い。

それなりに説明した後に、
以上は勿論、人間の転生についてのひとつの一般的な観念に過ぎない。そして現実とこの観念とは決して完全にではなく、多かれ少なかれ一致するというだけに過ぎない。事情によっては或る人生が前世のときよりも、ずっと不完全にならざるをえない場合が起こりうる。しかし全体としては、転生を続けていく間に、このような不規則な事態は一定の範囲内でふたたび調節される。
シュタイナー

霊界の諸相は、永遠に広がる。
まさに、百人百様であるから、断定して書く事が出来ないのである。

様々な霊界通信が、それである。
更に、シュタイナーも述べるように、その段階、彼は、領域と言うが、限りないのである。

ある意味では、教科書のように、説明しているが、決して、全てではない。
勿論、シュタイナーも、それを表現するのは、比喩によると言う。
それも、当然である。

何せ、シュタイナーも完全なものではないのである。

もし、完全なものであると、言えば、宗教になる。
そして、信じる行為になってしまう。

「霊界」の第一領域における人間は、地上の事物の霊的原像にとりかこまれている。この世の生活においては、思考内容として捉えたこれらの原像の影だけを、人間は知ることができた。地上では単に考えられるだけのものが、この領域では体験されるものとなる。
シュタイナー

要するに、死後直後から、目覚めた霊は、地上の生活の中にいるということだ。
目覚めなければ、何年も、何百年も、何千年も、眠っている。

更に、目覚めた霊は、その指導霊により、ある場所に連れて行かれる。
自分では、何も出来ないのである。

そして、意識のレベルの問題になる。
それを、領域という言葉で、段階を上がることを、シュタイナーは言う。

だから、次ぎの、
この領域で人間は思考内容の中を遍歴する。しかしその思考内容というのは現実の生きた存在なのである。
と、言う。

これは、肉体を失った故に、光になり、思考のみが存在するということである。

霊体になったのである。
当然、思考内容が、現実のものになる。

次ぎの説明も、あえてそのような書き方をしているが・・・

今や思考内容の形式をとって、彼に働き掛けてくる。
シュタイナー

このように、繰り返して説明するが、実に好きな人だ。

そして、これは、シュタイナーの霊界なのである。
その霊界が、すべての人に当て嵌まるということではない。

人は自分の肉体を外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。
シュタイナー

それは、遺体のことである。
あえて、このように表現するのである。

肉体を離れた霊は、当然、自分の遺体を見て、驚くだろう。
それは、生きていた我が身の姿だ。

シュタイナーの霊界は、物質界の霊界である。
だから、このような説明になる。

その物質界の霊界の中では、このように、実に、回りくどい言い方になるのだろう。

一見すると、詳しい解説のようだが・・・
霊界の中に、そのような世界が存在するという、よい見本である。

だから、シュタイナーの修行をすると、物質界の霊界に赴くことになる。

宇宙が果てないように、霊界も、果てが無い。
それぞれの霊界には、それぞの、段階がある。
彼は、領域と言うが・・・

もう少し、続けて見ることにする。



posted by 天山 at 06:54| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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