2014年10月01日

国を愛して何が悪い157

その二は、民衆の動揺である。平城京の造営をはじめ、聖武朝には各地に宮殿の造営が行なわれた。また東大寺はじめ全国に国分寺の建立されるに当って、農民の徴集が行なわれた。いわゆる「役民」である。彼らのあいだに生じた動揺、逃亡、流離、餓死は、奈良朝の見逃しえない暗黒面である。
亀井

それを続日本記は、記す。

そして、
京に近き左側の山原に、多くの人をあつめ、妖言して、衆を惑す。多きときはすなわち万人、少なきときはすなわち数千なり・・・
とある。

異端妖術取締りである。

その三は、犯罪の増加である。

皇族大氏族間の血族相克による流血はないが、その頃は、僧侶が介入して、策謀的になり、陰姓を帯びるようになる。

殺人、強盗、贋金作りなどの、犯罪は、各層に渡り、激増していた。

いつの時代も、それらは、付き物であるが・・・
顕著に多くなったという、感想である。

智恵がついた・・・
そのようにも、思う。

続記がとくにこの点に留意して記録したわけではない。大赦がくりかえされたその記録によってわかるわけである。
亀井

天災、地異、病気が起こるたびに、神祇仏法の祈り、重罪以外の、大赦が行なわれた。
特に、聖武朝では、毎年それが、行なわれている。

ある一定期間の安定の後には、人心が乱れる。
更に、社会が苦難に満ちる時である。

その際の、精神的な状況は、どのようなものだったのか。
仏教も、民衆に浸透していたとは、思われない。
それは、まだ、朝廷と、氏族のものだった。

亀井は、
次に七世紀から継承した八世紀の精神の主題とは何か。天平びとはそれを自覚し、それに応えようとしたかどうか。これが一番重要な問題である。
と、言う。

だが、七世紀の、神ながら、と、仏教への思索による帰依、その双方において、応えようとしたが、八世紀は、それを引き継ぐのか・・・

神ながら、と、仏教は、激しい対立を見せず、万葉集にも、仏教の影響は皆無といってもよい。

しかし、
八世紀天平びとの一種の衰弱の原因は、この主題に応えようとする意志あるいは祈念の弱さにあると言っていいのではないか。さらに原因を辿るならば、「神ながら」と仏教信仰との対決・持続の殆ど皆無な点に求められよう。
亀井

棚上げしてしまったのである。
それが、衰弱なのか、否か。

国造りの混乱を経て、ようやく落ち着きを取り戻した状態・・・
それが、八世紀の特徴なのではないか。

衰弱というより、休憩である。

その亀井の主題は、消滅していないのである。

鎮魂と帰依、歌(後には物語)と仏教信仰、その交流と内面化は、様々なかたちを変えつつ、平安朝から中世へとつづいてゆく。
亀井

この辺りのことは、最も、注視する精神史の一つである。

すでに、仏教の対立は、蘇我氏と物部氏の、豪族の争いとして、終わったものである。
その、仏教派の蘇我氏が勝ち、仏教が、国の精神に大きな影響を与えた。
これ以上に、それによる、争いを好まなかった。

そして、天武天皇は、明確に、仏教の国教化を計ったのである。

神ながら、と、仏の教え・・・
その仏の教えが、十分に理解されていない状態を続けていた。

その仏教も、大陸を通して伝えられたものであり、インドの仏教とは、全く姿を違えていた。
特に、中国仏教によるものである。

そして、仏教の新興宗教といえる、大乗仏教経典が伝えられている。
後にそれが、大きな、問題を引き起こすのである。

仏教という宗教から見ると、行を見出せない中国仏教と、日本仏教である。

だから、空海が、行らしきことを、行なったといえる。

天平びとは、八世紀初頭から、中期以後にかけて、万葉集を中心に見ると、大伴旅人、山上憶良という、彼らを巡る、筑紫サロングループ。
そして、長屋王を中心とする、漢詩人たち。
山部赤人、笠金村の、宮廷歌人たち。

更に、天平後期の、大伴家持を巡る、大伴家の人々と、多くの女流歌人たち。
もう一つは、家持の採集した、防人の歌となる。

亀井は、その中から特徴的な歌人を取り上げて、説明するが・・・
それについては、省略する。

精神史に関しては、特に、歌を見ることが第一だと思うが・・・
一人一人を上げて、説明、解釈するのではなく、全体を俯瞰したいと、思う。


posted by 天山 at 06:24| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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