2014年09月28日

国を愛して何が悪い154

隣の神と言われた、仏教の、仏、菩薩、その他諸々・・・
どれほどのエネルギーを掛けて、仏師たちが、創作したかである。

日本の仏像は、日本のみの、形がある。
東南アジアの仏教の仏像とは、全く違う。

ミャンマーのタチレクという町に入り、一度だけ、山の上にある、寺院を訪ねた。
そこでは、子供が説明してくれて、三体の仏像を、それぞれ、タイ仏陀、ビルマ仏陀、インド仏陀と言うのである。
それぞれ、違う形をしていた。

そして、それらとは、日本の仏像は全く違う。

仏像とは仏性の表現であり、菩薩像とは菩薩性の表現であって、たとえ人体を模しても、人間性を超越しなければならない。人体に接近しつつ人体を超越するそのときの間髪の芸が造仏技術の核心である。このときの芸とは抽象化能力のことである。
亀井

大仏のような像は、何処の国にも無いものである。

この造型に携わった、仏師たちのプロデュース能力が、凄い。

寺院の中に、一種の劇を演出したのである。
それぞれの、仏像の配置と、それらが「来迎」する様を模した。

それを見た人々は、何を思ったのだろうか。
想像も出来ないのである。

日本人の抽象化能力は、まさにこの面において最大限に発揮された。
亀井

日本には、哲学、思想なる物が無いとの定説であるが、私は、この造型能力こそ、哲学であり、思想であると、思う。

それは、それ以前の神道、古神道、古道に至るのである。

つまり、言挙げせずに、所作で、伝えた。
それと、同じことが、仏像制作でも、生きているのである。

思索性の存在である、仏像である。

それでは、日本の仏像の特徴は・・・
亀井が上げるものを書き出すと、
仏の慈悲をあらわす半眼である。

それは、瞑想の方向を辿り、悲哀の調子を帯び、やさしく優美になる。
亀井

そして、豊頬である。
微笑しているようにも見えるが、明らかに微笑しているとは言えない。

それぞれの年代にもよるが・・・

こうした微妙性の追求は、観音菩薩像においてとくに顕著で、私はその姿態を「柔軟性」と名づけてきた。
亀井

観音菩薩には、天女型が加味されてゆく。

すべての肉身(色身)に応じて、その人の身に化身して、救済するという約束からきた、言わば化身の自在性がもたらした微妙性である。
亀井

更に、仏像がまとう、薄い衣も、特徴的である。

ここで、救済、つまり、救いという観念が、どのような精神を生んだのかということである。

何故、救われなければならないのか・・・
それは、人間の存在の罪性である。

後に、煩悩具足の凡夫、という言葉が出てくる。
人間は、煩悩にまみれて、穢れている存在である。
この、罪意識・・・

キリスト教の原罪に似る。

罪悪感の意識は、仏教がもたらしたものである。
更に、無常観である。

当時の人々は、それを、どのように解釈したのか。
これも、一種の洗脳に当たるのである。

漢語で記された、経典から、得たものである。
更に、渡来した僧により、教えられたもの。

それは、新しい観念である。

ただし、穢れの意識は、それ以前にも存在していた。
汚れたモノに触れることは、穢れが移る。
だから、死体などは、穢れたものであるから、捨てた。

しかし、その霊は、生きていると、信じた。

霊とは、タマである。
後に、魂という文字を当てるが。

仏教が葬式をするのは、後々のことである。
最初は、思想だった。
ものの考え方である。

漢語による、経典から、得たものは・・・
それが、伝統に至るまでに、高まる。

だが、廃れないものがあった。
やまと言葉である。
漢語を利用したが、その中に、やまと言葉の読みを入れていた。
現在の、訓読みである。
これは、実に賢い方法だった。

日本語は、やまと言葉から、理解するものである。
それが、一時期、漢字の意味を知ることで、日本語が解るという人たちもいたが。
全く、別物である。



posted by 天山 at 06:21| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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