2014年09月24日

神仏は妄想である。501

思惟とは、分別のことである。
原語は、ヴィカルパ。

その意味は、広く、思惟、思慮を意味する。
また、原語では、選言肢、分岐の意味。

漢語の分別は、分けることである。

だから、その意味するところは、判断とする。

ナーガールジュナが、思惟は、ことばの虚構に基づくという。
つまり、判断は、ことばの虚構に基づくというのだ。
ことばの虚構の、訳した言語は、プランパンチャという。

ことばの虚構を、漢訳すると、戯論となる。
つまり、戯言である。

つまり、人間の思惟は、実在とは無関係な虚構にすぎないということになる。

人間の認識というものは直観から知覚・判断・推理という過程で展開する。純粋な直観においては主観と対象の分岐もなければ、主辞と賓辞との分岐もない。直観の世界は全一な刺激である。
専門家

これを説明にするには、多くの言葉が必要になる。
だから、省略する。

私の言い方で、簡単に言えば、
見たものを、言葉にすると、それで解ったつもりになる。
本当は、それ言葉のみのものであり、実存ではない。

人間の効用、人間のことばの中で理解することがはたして客観的に確実な認識であり、そこから生じてくる感情や行為が正しいものなのであろうか。
専門家

ナーガールジュナはことばを本質としたわれわれの認識過程を倒錯だといっているのである。われわれがなすべきことは、思惟・判断から直観の世界へ逆行することだ、と教えているのである。そうすれば、ことばを離れた実在に逢着する。それが空の世界である。
専門家

空ということは、ものが本体をもたない、ということである。
専門家

空性とは、言葉を離れた、直観の世界の本質であること。

しかし、私は言う。
言葉を通して、それらは、語られる。
そして、言葉を通さなければ、それらは、語られないのである。

それが、般若経の、神秘家たちが真実を求めて瞑想した、理由である。

一つ一つの対象が消え、ことばが消え、意識が消えたあとになおありありと残る真実は、「そこにおいては心さえもはたらかず、まして文字は生じない」ものであった。
専門家

心の対象が止滅するときには、ことばの対象は止息する。
それが、ものの本性であり、生じたものでも、滅したものでもない。

それは、対立することばのいずれによってもいい表わせないもの、ことば一般を越えた世界を指示している。

ご苦労さんである。

改めて、言葉以前の時代の、心の世界を披露してくれたのだ。

ちなみに、真実という言葉を使う文は、十分に注意すべきである。
真実などとは、虚無である。

だいたい、そこまで、言葉に関して言うのに、真実も、あったものではない。

他のものを通して知られず、静寂で、ことばの虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える。これが真実の形である。
と、ルジュナの文である。

自分で瞑想し、直観しなければならない自覚の境涯であることをいう。
専門家

静寂とは本体のないこと、すなわち空のシノニムとして使われる。本体を離れているということは、ことばを実体化したにすぎない本体をもたない、したがって、思惟やことばによってあげつらわれ、はからわれることがないことをいう。思惟やことばの対象とならないから静寂といわれるわけである。したがって真実はことばや思惟の特徴である種々性、多様な展開を超越している。
専門家

瞑想による、三昧の境地・・・
死ぬまで、そうしていれば、いい。

だから、正しいことは、死ぬまで、瞑想して、死ぬことであると、何故言わないのか。
死ぬのが、怖い・・・

「般若経」やナーガールジュナの瞑想の世界をわれわれは神秘的直観としばしば呼んできた。けれども、合理主義の対立するような意味での神秘主義も、神秘主義的な要素をまったく含まないような合理主義も古代インドの哲学や宗教の中には存在しなかった。それは、インドの宗教や哲学が原則的には、人間の救済の原理を情緒的なものではなくて、知識に置いていたということにもとづいている。
専門家

凄いことを言う。
合理主義に対立する神秘主義も、神秘主義的な要素をまったく含まないような合理主義も古代インドの哲学や宗教の中には存在しなかった・・・

これが、インドの凄いところである。
しかし、残念なことは、知識に置いていた・・・

その知識に関しても、論ずる論ずる・・・
反吐が出るのである。

結局は、ことばの虚構を、語る、語る、語る。
呆れるほど、語るのである。

禅宗が、不立文字といって、言葉に出来ないといいつつ、語り過ぎるほど語るのも、頷ける。

つまり、今も、こうして、読むことが出来るのも、語り、書いてくれたお陰である。
知識として・・・

そして、専門家は、こうして、解説して、その後、解脱して、涅槃に生まれたのか・・・
疑問・・・



posted by 天山 at 06:18| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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