2014年09月23日

神仏は妄想である。500

行為と煩悩の止滅によって解脱がある。行為と煩悩は思惟より生じる。それらはことばの虚構による。ことばの虚構は空性によって滅せられる。五
心の対象が止滅するときにはことばの対象は止息する。というのは、ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない。七
他のものを通して知られず、静寂で、ことばの虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える。これが真実の形である。九

ここには「般若経」の思想家たちの見たものと同じ神秘的直観の世界が最も理知的な表現によって語られている。
専門家

ナーガールジュナの書いたものを、解釈する様々な、解釈本がある。
初期仏典の、ダンマパダという本を、様々な人が解説するように。

神秘的直観・・・
一体、それがどういうことなのか。
それを語るために、また、本が必要である。

現代のわれわれは知・情・意という範疇をつねに意識している。そのために、人間の知的な活動、心情・意志的活動というものは、それぞれ別々な機能であり、それを混同することは無知のしるしだと思う。
古代インドの哲学者たちは、そうは考えていない。意志的なものとしての行為、心情的な煩悩―――欲望・怒り・愚痴というものは、人間の知的活動である思惟から生じてくる、という。思惟の最も基本的な形は判断であるが、感情的・意志的な執着や反発というものはその対象に関する美醜・好悪などの判断を先行させるからである。
専門家

感情的・意志的な執着や反発というものはその対象に関する美醜・好悪などの判断を先行させるからである。

それでは、最初から、そのように言えば、いいのである。

ルジュナは、これが真実の形である、と言う。
すると、その前の部分を徹底的に、解釈しなければならない。

そして、解釈の解釈が生まれて・・・
延々と、終わることの無い、言葉の世界が出来上がる。
これを、呆れる、と言う。

行為と煩悩の止滅によって解脱がある・・・
それでは、死んだ方がいいと、言えばよい。

そして、それは、思惟から生じる・・・
それらは、ことばの虚構による・・・

ことばの虚構を、その身で示しているようである。

心の対象が止滅するときにはことばの虚構は空性によって滅せられる・・・
死ねばいいのである。

ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない・・・

寝惚けたような、いい草である。

言葉の魔術に酔う人々・・・
インド哲学というもの。

ルジュナは、仏教以外の外道に対しても、批判するために、書き続けた。
外道とは、単に、仏教外の思想のことである。

当時は、様々な考え方があった。
仏陀の考え方も、そのたった、一つである。
そして、ルジュナの考え方も、である。

仏教を名乗る人たちは、仏陀という、権威を頼った。
仏陀の言うことは・・・云々である。

静寂で、ことばの虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える・・・

ルジュナも含めて、ことばの虚構によって、論じられているのである。

それ程、古代インドの思想というものは、魔的なものだった。
勿論、仏陀は、それを見抜いたからこそ、生活指導を主とした。

ある時、仏陀を訪ねた、老婆が、私は難しいことは、解りません。私でも、解るように、教えて下さいと言うと、仏陀は、悪いことを思わず、悪いことを行なわず、良いことを思い、行いなさいと、言う。

すると、それに、悪いこととは、云々・・・良いこととは、云々と、馬鹿な理屈を言う者が、現れるのである。
それが、仏教、インド思想の世界である。

終わらない議論は、解脱でもなんでもない。
勿論、涅槃など、あろうはずもない。

これでは、新興宗教の餌食に成るだけである。
解脱を説いて、反社会的行為を成し遂げた、新興宗教も存在した、日本である。

神秘的とか、直観という言葉に、騙されてはならない。
それは、信じているだけである。
仏陀は、当然、そのような言葉を口にしなかった。

死ねば、解決する問題である。
死人に口無し、という。

静寂とは、死ぬことである。
生きることは、動性であり、喧しいのである。

座禅などするより、死ぬことである。
そうすれば、静寂になる。確実に。

最高の真理の追究などという、単なる言葉に、騙されると、ひどい目に遭うのである。

思惟という言葉は、漢訳では、分別である。
原語は、ヴィカルパ。

次ぎは、その分別と、神秘的直観について、見ることにする。



posted by 天山 at 06:37| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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