その最初の、三と四を再度、掲載すると、
自我意識、所有意識を離れた人もまた存在しない。自我意識や所有意識を離れた人がいると見る者は(事実を)見ない。三
内と外に、「われ」もなく「わがもの」もなければ、執着は滅し、この消滅によって再生も尽きる。四
自我意識を持たない人もいないのであり、それを離れた人がいると見る人は、事実を見ないのである。
だが、内と外に、「われ」もなく「わがもの」もない。
すると、執着を離れて、輪廻することもない。
自我意識を持たない人はいないのに、「われ」も「わがもの」もなければ、執着は滅する・・・
何と言う、アホなことを言うのか。
自我意識の否定である。
この人、ナーガルジュナは、その著書、大智度論でも、否定の否定の否定・・・をする。
よく解らないのである。
専門家の言葉、
自我意識・所有意識を離れた人、解脱の主体そのものも存在するのではない。解脱の主体としての絶対の自己というようなものも、なお自我意識の対象にほかならない。どこまで後退しても、自我をたてようとする人間の根本的な執着を離れてはじめて、人は輪廻から自由になるのだ、というのである。
それを書いている、当の本人が、自我の意識で、書いている。
その前に、アビダルマの哲学における、自我の否定もある。
そこでは、人間存在を五つの身心の諸要素、物質、感覚、表象、意欲、思惟、あるいは、十二領域、十八種、五位七十五法という、究極的な単為に分析する。
それぞれの本体と機能を一つずつもった、これらの単位のみが実在であり、その分類に含まれない自我―――人格の主体は、存在しないという。
上記は、上座部仏教の説一切有部の、説明である。
小乗教徒たちは、それで、死ぬまでの暇を潰していたのである。
結構な身分だ。
仏教徒の指導者というものは、こうして、しようもないことを、延々として、繰り返し、そして、死んだ。
解脱・・・
そんなことは、解らない。
そして、大乗になると、御覧の通り、更に、ルジュナのように、ゴネルのである。
更に、論敵を討つために、論を張るという、暇である。
「自我が存在する」という相手の主張を吟味するとき、その自我という概念を、それと最も密接に関係した概念を手がかりにして、論理的に二分する。人に自我があるとすれば、それは誰にとってもその存在が明らかである身心と同一であるか、別異であるかである。
身心は刹那滅的な無常な存在であるから、もし自我が身心と同じならば無常なものとなってしまう。しかし、哲学者が自我を主張するのは、無常な人間の中にある恒常的な主体―――精神・霊魂といったものを考えるからである。してみれば、無常な自我というものはおよそ意味がない。
専門家
そして、自我は身心と別異な、永遠な存在であるともいうことも、できない。
身心、物と心とは別な、生滅せず、具体的な特徴をもたないものは存在しない。存在しないものを、自我と名付けることはできない。
われわれの認識することのできるものは、無常な五群だけであるからである。
専門家
ところが、自我意識を離れたところの自己というもの、相対的な関係を越えた、絶対的な自己というものがなければ、誰が解脱するのだろうか・・・
ということに、ルジュナは応えて、解脱の主体そのものも存在するのではないというのである。
解脱の主体としての絶対の自己というようなものも、なお自我意識の対象にほかならない。どこまで後退しても、自我をたてようとする人間の根本的な執着を離れてはじめて、人は輪廻から自由になるのだ、というまのである。
専門家
こんな理屈を考えていれば、また、輪廻しているだろう。
仏教の根本的執着である、五感官の対象に対する、欲望その他・・・
その中でも、自我への執着が、最も基本である。
当然といえば、当然である。
自我意識があるから、執着があるのである。
ルジュナは、人の執着の根源となっているものを、問題として、取り上げたと、専門家が言うが・・・
勿論、そこには、般若経の空、無相、無願という、三つの三昧がある。
それぞれ、存在論的、認識論的、宗教的ないし、心理的な意味合いをもつ。
それは、無執着の境地である。
ルジュナは、無願三昧に、言及していると、専門家は、言う。
これから先が思いやられるが、これが、大乗の菩薩といわれるのである。
また、ナーガールジュナは、八宗の祖といわれる。
つまり、そこから、八つの宗派が出来たということだ。
この、ナーガールジュナとは、私から言えば、罪人である。
人を、徹底的に、迷わせた人。
更には、その妄語により、大乗仏教に、大きな影響を与え、そして、多くの人に、妄想を吹き込んだ。
ただ、評価出来るのは、仏教の天上界が、魔界であると、喝破したことである。
つまり、自分の行くべき世界が、魔界であると、悟ったのである。
それは、大いに、評価する。
魔界でなければ、このような人物は現れない。