2014年09月20日

もののあわれについて702

「御中うるはしくて過ぐし給へ」と思す。あまりに何心もなき御有様を見あらはされむも恥づかしくあぢきなけれど、「さ宣はむを、心隔てむもあいなし」と思すなりけり。
対にはかく出で立ちなどし給ふものから、「われよりかみの人やはあるべき。身のほどなるものはかなきさまを、見え置き奉りたるばかりこそあらめ」など思ひ続けられて、うちながめ給ふ。手習ひなどするにもおのづから古言も、物思はしき筋のみ書かるるを、「さらばわが身には思ふことありけり」とみづからぞ思し知らるる。




御中が良く、お暮らしになさるように、と思いである。あまりに、子供子供したご様子を、見られてしまっても、恥ずかしく、面白くないが、あのように、おっしゃるのを、会わせないのも、感心しない、と思いになるのである。
対にありては、このようにご挨拶にお出になるものの、自分より上の人が、あるだろうか。生まれの、相応の貧しいところを、源氏に見られてしまっただけなのだ、などと、つい考え続けて、物思いに沈む。筆を取っても、いつしか、古歌も、物思いの筋のものばかり、筆先に出てくるので、それでは、私に思い悩むことがあったのだと、自分ながら、初めて、気が付くのである。




院渡り給ひて、宮、女御の君などの御さまどもを、うつくしうもおはするかなと、さまざま見奉り給へる御目うつしには、年ごろ目慣れ給へる人のおぼろけならむが、いとかくおどろかるべきにもあらぬを、なほ類なくこそはと見給ふ。あり難きことなりかし。




院が起こしになって、宮や、女御の君などのご様子を、可愛らしくしていられると、一人一人御覧になる、その目で見ると、長年連れ添っていられる方が、いい加減な方なら、これほど驚かれるはずもない。矢張り、二人といない、方だと、御覧になる。
ありそうも無い、お話です。

最後は、作者の言葉。




あるべき限り、気高う恥づかしげに整ひたるに添ひて、はなやかに今めかしく、にほひなまめきたる様々のかをりも取り集め、めでたき盛りに見え給ふ。去年より今年はまさり、昨日より今日は珍しく、常に目なれぬさまのし給へるを、いかでかくしもありけむと思す。




どこからどこまで、一切が気高く立派に整っている、その上に、華やかで、今風で、色艶の上品な、様々な様子も、何もかもお持ちで、今が、美しい盛りに見える。去年よりは、今年のほうが立派に、昨日よりは、今日のほうが素晴らしく、いつも新鮮な様子で、いらっしゃるのを、どうして、こんなにも、美しいのかと、思うのである。




うちとけたりつる御手習ひを、硯の下にさし入れ給へれど、見つけ給ひて、引き返し見給ふ。手などのいとわざとも上手と見えで、らうらうじくうつくしげに書き給へり。

紫の上
身にちかく あきや来ぬらむ 見るままに 青葉の山も うつろひにけり

とある所に、目とどめ給ひて、

源氏
水鳥の 青羽は色も かはらぬを 萩の下こそ けしきことなれ

など書き添へつつすさび給ふ。
ことにふれて、心苦しき御けしきの、下にはおのづから漏りつつ見ゆるを、ことなく消ち給へるも、あり難くあはれに思さる。




気を許しての、遊び書きを、硯の下に入れになり、源氏は見つけて、引き出して、御覧になる。筆跡などは、特別に上手ではないが、上品に、可愛らしく書いてある。

紫の上
身近に秋が来たようです。見ているうちに、青葉の山も、色が変わってきました。私は、飽きられたのではないのか。

と、書いてある場所に目をつけて、

源氏
水鳥の青羽の色は変わらないが、秋萩の下葉がおかしい。私の気持ちは変わらないが、あなたの方が変です。

など、遊び半分に書き添える。
何かにつけて、お気の毒な様子が、隠しても、自然に漏れて出てしまうのを、本人が、なんでもなく、気にしているのも、世に稀な、立派な方だと、源氏は思うのである。

あり難くあはれに・・・
この世にいない、稀な人という。
この、あはれ、は賞賛である。





今宵は、いづかたにも御いとまありぬべければ、かの忍び所に、いと理なくて出で給ひにけり。いとあるまじきことと、いみじく思しかへすにも、かなはざりけり。




今宵は、どちらにも行かなくとも、よさそうなので、あの忍び所に、無理をしてお出掛けになった。実に、けしからんことと、しみじみ反省するが、負けてしまうのである。

忍び所とは、朧月夜の所である。
密会・・・

何とも、このような、挿話を自然に、織り交ぜるのだ。



posted by 天山 at 06:20| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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