シュタイナー
それ以前に、第一、第二、第三、第四の段階があった。
仏教の諸派にも、悟りの段階が相当数あり、似ていると感じた。
この段階では、他のものに対する共感がすでに重要な意味をもつ。この世の生活の中で低い欲求だけを満足させようとはせず、与えられた環境に対して喜びと愛情を感じることのできた魂は、この段階に親しみをもつことができる。
シュタイナー
魂界の話だけではない。
現実の生活の中でも、あり得ることである。
たとえばこの段階で浄化を受けるだろう。しかし自然体験には、もっと高次の、霊的性格のものがある。それは自然の事物やそのいとなみの中に顕現する霊を体験しようとする場合である。このような自然感情は、その人の霊性を開発し、魂の中に永続的部分を築き上げる。
しかし感覚的享受を動機にもつ自然体験はこの自然感情とは異なる。魂は物質的なものだけに向けられた欲求と同じように、このような自然体験をも浄化しなければならない。
シュタイナー
日本の伝統的な自然に対する考え方・・・
それは、これを超えている。
宗教活動を通して物質生活の向上を期待していた人々の魂も、この領域で浄化を受けることになる。その人々の憧憬の対象が地上の楽園だったのか、それとも天上の楽園だったのかはどちらでもよい。いずれの場合も、このような人々の魂は「魂の国」の中でこの楽園に出会うであろうが、それは結局、このような楽園の空しさを悟るためなのだからである。
シュタイナー
宗教的霊性と、シュタイナーの霊性を比べることは、しない。
第六の領域は、活動する魂の力の領域である。
利己的性格をもたなくても、行為の動機が感覚の満足にあるような事業欲は、この領域の中で浄化を受ける。
シュタイナー
理想主義者、犠牲的精神に富んだ人も、それは、感覚的な快感の高まりなのであると、言う。
芸術的な人や面白いというだけの理由で学問的研究に没頭している人の多くは、この部類に属する。芸術や学問の存在理由がそのような面白さにあると信じることが、彼らを物質界につなぎとめているのである。
シュタイナー
だから、この領域で浄化を受ける・・・
そして、本来の魂の生活の領域である、第七領域は、感覚的物質的世界への執着から最終的に人間を解放する。
最後に残された魂の部分は感覚的世界のためにすべてを捧げて働くべきだという考え方であって、これが霊を依然として覆い包んでいるのである。
シュタイナー
非常に優れた人物の中にも、物質界の事象以外のことはあまり考慮しようとしない人がいる。そのような信念を唯物論信仰と呼ぶことができるだろう。
シュタイナー
シュタイナーの言う、唯物論である。
更に、唯物論信仰・・・
優れた人ほど、唯物論に陥りやすいだろう。
そして、その人たちの霊界も、存在する。
唯物論者でも、霊界入りするのである。
この領域で魂は、真の現実の中には唯物論信仰の対象となるようなものは何も存在しないということを悟る。
シュタイナー
違う。
勿論、肉体を失った後に、つまり死後の世界にて、更に、唯物的な問題に取り組む人たちもいる。
ということは、シュタイナーによれば、低い段階にいるということになる。
その領域では、
魂は今や魂界に残りなく吸収し尽くされ、霊はあらゆる束縛から自由になる。霊は今、彼本来の諸領域へ向って飛翔する。それらの領域においてのみ、霊は自己本来の環境の中にいる、ということができるのである。
シュタイナー
魂は生前のこの世の課題に応えてきた。そして死後、この課題のうち霊にとって束縛であったものが解消された。魂は地上生活のこの残滓を残りなく捨て去ることにより、魂自身、その本来の領域の中に還元されるのである。
シュタイナー
魂は、この世の生活の中であらかじめ作られてきた条件次第で、以上の諸領域のどれかに長く留まったり、短く留まったりする。
シュタイナー
魂界も、霊界も、この世の言葉で表現するのは、実に難しい。
それをシュタイナーは、書き続ける。
それは、評価できることである。
しかし、そこに佇んだ時に、人間の存在は、知るのである。
死後の世界を知ることは、正しいことだが・・・
現実の世界を生きることは、もっと、難しいのである。
それは、人生は、あまりに苦悩に満ちている。
そして、不幸に満ちているのである。
神智学が、救いにならないのである。
霊学も、然り。
勿論、宗教を信じるように扱えば、一つの救いとなることも、可能だが・・・
何一つ、人生の問題は、解決しない。
例えて言えば、いい気なものである。
このように、難しく考える必要は無い。
人生を生き抜くことが、できれば、必ず、助け手が、差し伸べられるだろう。
それは、神でも、仏でも、霊学でもない。
私である。
私の存在に私が出会うことにより、救われるのである。
魂、霊・・・
そんな言葉を必要としない、世界がある。
だが、引き続き、シュタイナーの霊界を見る。