2014年09月01日

国を愛して何が悪い153

今日我々が仏像の名で総称しているものを、正確に分類すれば、仏像(如来と釈迦)、菩薩、明王像、諸天像、鬼神像などである。すべて経典にしるされた固有の性格、その作用、その意味を造型化したもの、つまり「思想像」である。仏教伝来とは、この大群像の伝来であり、言わば新しい「神話」の世界の展開であった。古代人の想像力はここに一大変化を迫られた筈である。
亀井

確かに・・・
思想像とは・・・

推古天皇32年の調査によれば、当時の寺院は、46ヶ所、僧尼1385人である。
法隆寺は、国家経営の天皇勅願寺であり、各氏族は、それぞれの氏神を祭っていた、その形式を、踏襲するかのように、氏寺を建立した。これは、智識寺と名付けられた。

大化の改新以後は、天智天皇勅願の崇福寺、天武天皇勅願の、高市大寺、持統天皇には薬師寺がある。

勿論、現在は存在しない、多くの寺もあった。

そこで、特に注目すべきは、天武天皇14年の、詔である。
「諸国の家毎に仏舎を作り、すなわち仏像と経とを置きて礼拝供養せよ」

これは、個人の家ではなく、諸国の国府、国司の政務を司る官家を指すといわれる。
寺院ではないが、仏礼拝が国家統制の傾向を帯びてきた現われである。
奈良朝における、国分寺建立の先駆けと言える。

つまり、国教化である。

奈良朝に至ると、総国分寺としての、東大寺をはじめ、北は陸奥出羽から、南は薩摩まで、全国に渡り、68ヶ所の国分寺、そして、国分尼寺が建立された。

それは、天平東大寺を模した、大規模な伽藍である。

推古天皇から、奈良朝まで、どれだけの、諸像が造られたか・・・
驚くべき数にのぼるだろう。

国分寺は勿論のこと、寺院の多くは、三重塔、五重塔を持っていた。
それらは、朱塗りの塔であり、人々の住む場所に、そららは、聳え立っただろう。

全く、今までには無い、風景である。

文献の上からみて、思索において甚だ貧しかった古代人も、造寺造仏においては精密に思索し、高度の知性を発揮したことは、仏体のあらゆる微妙性の追及にみられる。むろん大陸の模倣から始まり、帰化人技術者の指揮なしには不可能であったが、年月を経るにつれて、帰化人の同化、混血の累積、日本人の習熟によって、次第に独自の造型力を示すに至った。
亀井

飛鳥、白鳳、天平・・・
時代を経るに従い、諸像の形態は、写実性を帯びる。
だが、亀井は、それを、「仏像の進歩」として、受け取ることは、有り得ないと言う。

それぞれの仏像は、その時代において絶対的存在であった筈だ。
亀井

発願の動機の、絶対性・・・
それに支えられた、仏像制作である。

私は、あるいは、仏像があっても、あまりにも貴いものとして、見ることも、拒んだのではないかと、思える。
ただ、その前に、額ずくことが、精一杯だった。

あまりに、ありがたくて・・・

解釈と説明とは、現代的な思考である。
そして、それをすべてとすれば、見えなくなる。
古代人の姿である。

亀井も、仏像の発願ということに、重きを置く。
病気快癒・・・
国家安泰・・・
あるいは、先祖供養・・・しかし、それは、後々のことである。

仏教の死後の世界は、後々で、現れる。

それは、つまり、
諸々の仏像とは、美的鑑賞の対象ではなく、彼らは、造形美を追及したわけでもない。経文の意味の造型を通しての感知であり、意味への礼拝であった。
亀井
と、なる。

意味への礼拝とは・・・
これは、現代人には、測り知れない思いである。

それでは、それを作る側、仏師の側を考えると、彼らは、人々の発願と、意味への、礼拝に相応しい像の作成に、心血を注いだ。

それに応えるべくの、試練である。
つまり、彼らは、経典を理解した・・・
その内容と意味を、理解しなければ、着手出来ないのである。

仏師は、そのまま、僧になる。
そして、その多くが、無名である。

造仏技術とは、造型技術であるとともに信仰の行為であった。言わば特殊な材料による信仰の感覚的消化の過程を意味した。
亀井

更に、彼らは、寺の内部のプロデューサーでもある。

それは、儀式の行なわれる場合の、仏像の有り様などを、考慮し、仏像を、どのように効果的に安置するのかを、考えたはずだ。

後に、空海が見せた、マジックのような効果を、すでに彼らは、意識していた。

だが、それは、純粋無垢である。
それが、彼らの信仰だった。

焔に浮かぶ仏像の実在性を、徹底的に感得しただろう。

人間界とは、別な世界・・・
それは、仏という世界・・・
それを寺の内部に、創作したのである。



posted by 天山 at 06:12| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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