2014年09月13日

もののあわれについて698

かんの君、「いでや、世の中を思ひ知るにつけても、昔よりつらき御心をここら思ひつめつる年頃のはてに、あはれに悲しき御事をさしおきて、いかなる昔語りをか聞えむ。げに人は漏り聞かぬやうありとも、心の問はむこそいと恥づかしかるべけれ」と、うち嘆き給ひつつ、なほさらにあるまじき由をのみ聞ゆ。




尚侍の君は、でも、世間の事が解ってくると共に、若者みたいに、昔からつれないお心と、何度も思わされた今頃になり、お気の毒で、悲しいご出家を差し置いて、どんな昔話が申し上げられましょう。それは、誰にも聞かれずに済むことはあっても、心の内に聞かれたら、答えようもない、と、嘆きつつ、今更、考えられないこととの、お返事ばかりである。



古へわりなかりし世にだに、心かはし給はぬ事にもあらざりしを、げに背き給ひぬる御為め後ろめたきやうにはあれど、あらざらし事にもあらねば、今しもけざやかに清まはりて、立ちしわが名、今更に取り返し給ふべきにや、と、思しおこして、この信田の森を道しるべにて、まうで給ふ。




昔、無理な話だった、あの頃でさえ、同じ心では、なかったのに、いかにも、ご出家されたお方に対して、暗い気持ちはするが、昔なかった事でもないので、今になり、綺麗に潔白ぶっても、立ってしまった、浮名を改めて取り消すことが、できないだろうと、元気を出して、この信田の森を、道案内にして、お出掛けになる。

源氏の心境である。
古・・・会うことの、到底無理に思われた頃である。

立ちにしわが名
村鳥の 立ちにしわが名 今更に 事なしぶとも しるしあらめや
古今集




女君には、源氏「東の院にものする常陸の君の、日頃わづらひて久しくなりけるを、もの騒がしき紛れに訪らはねば、いとほしくてなむ。昼などけざやかに渡らせむも便なきを、夜のまに忍びて、となむ思ひ侍る。人にもかくとも知らせじ」と、聞え給ひて、いといたく心げさうし給ふを、例はさしも見え給はぬあたりを、「あやし」と、見給ひて、思ひ合はせ給ふこともあれど、姫宮の御事の後は、何事も、いと過ぎぬる方のやうにはあらず、少し隔つる心そひて、見知らぬやうにておはす。




女君、紫の上には、源氏が、東の院にいる常陸の君が、このところ病が長引いているが、何か忙しさに取り紛れ、お見舞いもしなかったので、可愛そうで。昼間、人の見る中で出掛けて行くのも、具合が悪いので、夜の間に、ひっそりと、と思います。誰にも、こうとは、知らせずに、と、申し上げた。たいそう、せわしない様子で、いつもは、それほど気にしないが、変だと、思いつつ、思い当たることもあるが、姫宮のことがあってからは、何事も昔のようではなく、少し他人行儀な気遣いが出来て、気づかない振りをしている。




その日は寝殿へも渡り給はで、御文書きかはし給ふ。たき物などに、心を入れて、暮らし給ふ。宵過ぐして、睦まじき人の限り四五人ばかり、網代車の、昔おぼえて、やつれたるにて出で給ふ。




その日は、寝殿へも、いらっしゃらないで、お手紙をやり取りされる。薫物などに気をつけて、一日を過ごし、宵が過ぎるまで待ち、親しい者ばかり四五人ほどを連れて、網代車の昔を思い出させる粗末なもので、お出掛けになる。




和泉の守して、御消息聞え給ふ。
かく渡りおはしましたる由、ささめき聞ゆれば、驚き給ひて、朧月夜「あやしく、いかやうに聞えたるにか」と、むつかり給へど、女房「をかしやかにて返し奉らむに、いと便なう侍らむ」とて、あながちに思ひめぐらして入れ奉る。
御とぶらひなど聞え給ひて、源氏「ただここもとに、物ごしにても。更に昔のあるまじき心などは、残らずにりにけるを」と、わりなく聞え給へば、いたく嘆く嘆くいざり出で給へり。「さればよ。なほ気近さは」と、かつ思さる。




和泉の守を使いにして、ご案内申し上げる。
到着したことを、そっとお耳に入れると、びっくりされて、朧月夜は、変だこと。どのようにお返事申し上げたのかと、ご機嫌が悪い。女房は、風情のあるもてなしをして、お返し申し上げましょう。具合が悪いでしょう、と言い、無理に工面して、お入れ申し上げる。
お見舞いなど、申し上げて、源氏は、ほんのここまで、お出で下さい。几帳ごしにでも。全く、昔のような、あるまじき心は、なくなっています、と切に、申し上げると、ひどく溜息をつきながらも、いざって、出てこられた。
案の定だ。矢張り、腰の軽さは変わらない、と、一方では、思いになる。




かたみにおぼろけならぬ御みじろきなれば、あはれも少なからず。
東の対なりけり。辰巳の方の廂にすえ奉りて、御障子のしりは固めたれば、源氏「いと若やかなる心地もするかな。年月の積もりをも紛れなく数へらるる心ならひに、かくおぼめかしきは、いみじうつらくこそ」と、恨み聞え給ふ。




お互いに、知らぬではない、相手の身の動きにて、心の動くこと、ひとしおである。
東の対であった。その東南の廂の間に座っていただき、間を隔てる襖障子の端は、固くとめであるので、源氏は、全く若い者のような気もします。あれから、何年何月と、はっきり数えられるほど、いつも思い続けています。このような、頼りないお扱いは、辛いものです。と、恨み申し上げる。


posted by 天山 at 06:36| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月14日

もののあわれについて699

夜いたく更け行く。玉藻に遊ぶをしの声々などあはれに聞えて、しめじめと人目少なき宮のうちの有様も、「さも移り行く世かな」と思し続くるに、平中がまねならねど、まことに涙もろになむ。昔にかはりて、おとなおとなしくは聞え給ふものから、源氏「これをかくてや」と、引き動かし給ふ。




夜がすっかりと更けて行く。玉藻に遊ぶ、おし鳥の声が、あはれに聞える。しっとりと、人気の無い宮のうちの様子も、こうも変わってしまう世の中だ、と、あれこれ思い続けていると、平中の真似ではないが、本当に、涙が出てしまう。昔と違い、落ち着いて話はされるものの、源氏は、この隔ては、このままか、と、動かすのである。

平中とは、女の前で泣く真似をして、失敗した話。

あはれに聞えて・・・
このまま、あはれ、でいい。しんみりと・・・静々と・・・




源氏
年月を なかに隔てて 逢坂の さもせきがたく 落つる涙か

女、
朧月夜
涙のみ せきとめがたき 清水にて 行きあふ道は 早く絶えにき

など、かけ離れ聞え給へど、古へを思しいづるも、「誰により、多うはさるいみじき事もありし世の騒ぎぞは」と、思ひ出で給ふに、「げに今一度の対面は、ありもすべかりけり」と、思し弱るも、もとより、づしやかなる所はおはせざりし人の、年頃はさまざまに世の中を思ひ知り、来し方を悔しく、公私のことにふれつつ、数もなく思し集めて、いといたく過ぐし給ひにたれど、昔覚えたる御対面に、その世のことも遠からぬ心地して、え心強くももてなし給はず。




源氏
長い年月の後、やっと今、お逢いできたのに、こんな関があっては、止められないほど、涙が出ます。


朧月夜
涙だけは、関の清水のゆうに、せき止めにくく、溢れ出ても、お逢いする道は、もう絶えてしまいました。

など、もってのほかと、ご返事されるが、昔を思い出すと、誰のせいで、あのような大変なことが起こり、大騒ぎになったのかと。すべては、自分のせいだと考えるので、なる程に、今一度、会ってもいいことと、気が弱るのも、元々、重々しいところがなかった人が、この何年かは、あれこれと、愛情の問題も解り、昔の事を後悔して、公につけ、私につけ、数え切れないほどに、考えることがあり、大変慎んで過ごしていたが、昔が思い出される対面に、あの頃の事も、そう昔ではないような気がして、つれない態度も、取れない様子なのだ。

源氏の心境であるが・・・
何とも、複雑である。
ここで、女、と書くのは、源氏の恋人として、認識するからだ。




なほらうらうじく若うなつかしくて、一方ならぬ世のつつましさをもあはれをも思ひ乱れて、嘆きがちにてものし給ふ気色など、今はじめたらむよりも珍しくあはれにて、明け行くもいと口惜しくて、出で給はむそらもなし。
朝ぼらけのただならぬ空に、百千鳥の声もいとうららかなり。花は皆散り過ぎて、なごりかすめる梢の浅緑なる木立、むかし藤の宴し給ひし、このころまことなりけりかし、と思し出づる。年月のつもりにける程も、その折りのこと、かき続けあはれに思さる。




今も、品よく、優しくて、並々ならぬ世間への遠慮と、源氏への思慕に、溜息の様子など、今初めて、逢った以上に、新鮮で心が動く。夜が明けて行くのも、残念でたまらず、帰る気もしないのだ。
朝ぼらけの、特別に感じる空に、百千鳥の声も、とてもうららかである。花は皆散ってしまい、その後、霞かかった梢の浅緑の木立。昔、右大臣が藤の花の宴をされたのは、今頃だったと、思い出す。年月の積もったほど、あの折りのことなども、次々と、あはれに思い出される。

あはれをも思ひ乱れて・・・
珍しくあはれにて・・・
かき続けあはれに・・・

あはれ、という言葉が多い。
深い心境である。
また、懐かしい気持ち・・・
これらを、すべて、しみじみと、とは、言えない。

それぞれの、あはれ、の、風景があるのだ。




中納言の君、見奉り送るとて、妻戸押しあけたるに、立ち返り給ひて、源氏「この藤よ。いかに染めけむ色にか。なほえならぬ心そふ匂ひにこそ。いかでこの藤をば立ち離るべき」と、わりなく出でがてに思しやすらひたり。




中納言の君が、お見送り申し上げるために、妻戸を押し開けたが、元に戻り、源氏は、この藤だ。どうして、こんなに美しく咲いたのか。矢張り、何とも言えない味のある色だ。どうして、この藤を立ち去ることができよう、と、どうしても出にくそうに、戸惑って佇むのである。

なほ え ならぬ心そふ匂ひにこそ・・・
匂ひ、は、姿、形、色をも言う。
え、は強調の意である。

匂ひ、という言葉の、原型である。
語源としても、いい。

posted by 天山 at 06:26| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月15日

もののあわれについて700

山際よりさし出づる日の、はなやかなるにさしあひ、目も輝く心地する御様のこよなくねび加はり給へる御気配などを、珍しく程経ても見奉るは、まして世の常ならず覚ゆれば、「さる方にても、などか見奉り過ぐし給はざらむ。御宮仕へにも限りありて、際ことに離れ給ふこともなかりしを、故宮のよろづに心を尽くし給ひ、よからぬ世の騒ぎに、かろがろしき御名さへひびきてやみにしよ」など、思ひ出でらる。




山際から差し掛けてくる、朝日の華やかな光に映えて、目もくらむ思いがするお姿の、年とともに、いよいよご立派になられるそのご様子を、久しぶりに、今拝する中納言は、昔以上に、世の常の人とも思えぬ気がする。どうして、一緒にお暮らしにならないのだろう。宮仕えにも、限度があり、特別の位にも、就かれず、亡き皇太后が何から何まで、一生懸命になさり、けしからぬ騒ぎが起こり、浮名まで立って、あれっきりになってしまったのだ。などと、つい、心に浮かんでくる。




名残多く残りらむ御物語のとぢめは、げに残りあらせまほしきわざなめるを、御身を心にえ任せ給ふまじく、ここらの人目もいと恐しくつつましければ、やうやうさしあがり行くに心あわただしくて、廊の戸に御車さし寄せたる人々も、忍びて声づくり聞ゆ。




名残多いお話は尽きず、話の終わりは、いかにも後を、続けさせたいものだけれど、御身をご自由に出来ないご身分で、多くの人目に触れることも恐ろしく、遠慮もされるので、だんだんと、日が高くなり、気が気ではなく、廊の戸口に車を持ってきた、お供の人たちも、そっと、催促される。




人召して、かの咲きかかりたる花、一枝折らせ給へり。

源氏
沈みしも 忘れぬものを こりずまに 身も投げつべき 宿の藤波

いといたく思しわづらひて寄り居給へるを、心苦しう見奉る。
女君も、今度にいとつつましく、さまざまに思ひ乱れ給へるに、花の蔭はなほなつかしくて、

朧月夜
身を投げむ 淵もまことの 淵ならで かけじやさらに こりずまの波

いと若やかなる御ふるまひを、心ながらも許さぬことに思しながら、関守の固からぬたゆみにや、いとよく語らひおきて出で給ふ。
そのかみも、人よりこよなく心とどめて思う給へりし御心ざしながら、はつかにてやみにし御中らひには、いかでかはあはれも少なからむ。




お供召して、垂れ下がる藤の花の一枝を折らせて。

源氏
須磨で沈んで、暮らしたことを、忘れない。こりもせずに、またこの家の藤に、淵に、身を投げてしまいそうだ。

たいそうな、煩悶の様子で、欄干に寄りかかり、お座りなのを、中納言は、お気の毒と、拝する。
女君も、今更に、身の縮む思いで、あれこれと、追憶していられる。花の影には、やはり、身も寄せたく思いつつ、

朧月夜
身を投げようとおっしゃる淵も、本当の淵ではないものです。しょうこりもなく、誘われたりは、しまいと、思います。

大変、若々しいなさりようで、自分のことながら、良くないことと、思いつつ、関守が固くないので、気が弛むのか、源氏は、よくよく、後の逢瀬を約束して、お出になる。
あの昔も、他の女以上に、熱心に愛していらした方なのに、わずかの間で、途絶えたお二人なので、どうして、愛情の浅いことがあろうか。

いかでかは あはれも 少なからむ
ここでは、愛情のことを、あはれ、と表現する。
あはれの風景が、更に広がる。

関守の・・・
人知れぬ わがかよひぢの 関守は よひよひごとに うちも寝ななむ
伊勢物語




いみじく忍び入り給へる御寝くたれのさまを待ち受けて、女君「さばかりならむ」と心え給へれど、おぼめかしくもてなしおはす。なかなかうちふすべなどし給−らむよりも心苦しく、「などかくしも見放ち給へらむ」と思さるれば、ありしよりけに深き契りをのみ、長き世をかけて聞え給ふ。




源氏は、とてもこっそりと、入って来られる、その寝乱れたお姿を、待つ身で見て、女君は、そんなことだろうと、察するが、気づかない振りをしておられる。かえって、焼きもちをされるより、お気の毒で、どうして、このように放っておくのかと、思うのだが、前よりも、一層、強い愛情を、永遠に変わらないと、お約束申し上げる。

これでは、紫の上が、一枚上手である。

いつの世も・・・
この、男と女の物語が、繰り返される。

世界初の小説が、普遍的な男女の物語にもなるのである。

だが、そこに、あはれ、という風景を磨き上げた、日本人の感性は、素晴らしいものがある。
これが、西欧などだと、罪と罰のようなお話になる可能性がある。
posted by 天山 at 05:53| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月19日

もののあわれについて701

尚侍の君の御事も、また漏らすべきならねど、いにしへの事も知り給へれば、源氏「まほにはあらねど物ごしにはつかなりつる対面なむ残りある心地する。いかで人目とがめあるまじくもて隠しては今一度も」と語らひ聞え給ふ。うち笑ひて、紫「今めかしくもなりかへる御有様かな。昔を今に改め加へ給ふほど、中空なる身のため苦しく」とて、さすがに涙ぐみ給へるまみの、いとらうたげに見ゆるに、源氏「かう心安からぬ御けしきこそ苦しけれ。ただおいらかにひきつみなどして教へ給へ。へだてあるべくも慣らはし聞えぬを、思はずにこそなりにける御心なれ」とて、よろづに御心とり給ふほどに、何事もえ残し給はずなりぬめり。




尚侍の君の事も、誰に漏らすべきではないが、昔の事も、ご存知でいられるから、真っ当に源氏は、屏風ごしに、ほんの少しの間、会っただけなので、物足りない気がする。何とかして、人に見咎められぬように、秘密にして、もう一度くらいは、と、お話される。軽く笑い、紫の上は、今風に、若返りされた様子です。昔されたことを、改めて、昔以上になさるのですね。拠り所の無い私は、辛くて、と、それでも、涙ぐみになる、目つきが可愛らしいく見える。源氏は、こんなに機嫌が悪い様子では、辛いことだ。いっそ、あっさり、つねるなりして叱ってください。思うことを言わずにいるようなことのないように、してきたのに、案外なお方になったようです。と、何かとご機嫌をとるうちに、何もかも言わずにいられなくなる様子だ。




宮の御方にもとみにえ渡り給はず。こしらへ聞えつつおはします。
姫宮は何とも思したらぬを、御後見どもぞ安からず聞えける。わづらはしうなど見え給ふ気色ならば、そなたもまして心苦しかるべきを、おいらかに美しきもてあそびぐさに思ひ聞え給へり。




宮様のお部屋にも出ずに、ご機嫌を取っていられる。
姫宮は、何とも思わないが、お世話役連中は、ご心配申し上げる。
うるさい方と思われるような様子なら、紫の上以上に、お気の毒なのだが、おっとりしていて、可愛らしい玩具と思い、申し上げている。

源氏の様子と心境である。




桐壺の御方は、うちはへまかで給はず。御いとまのあり難ければ、心安くならひ給へる若き御心に、いと苦しくのみ思したり。夏ごろ、悩ましくし給ふを、とみにも許し聞え給はねば、いとわりなしと思す。めづらしきさまの御心地にぞありける。まだいとあえかなるおほむ程に、いとゆゆしくぞ、誰も誰も思すらむかし。




桐壺の御方は、ずっと、お里下がりにできずにいられる。お暇が出そうにないので、お気楽が癖になっている、若い方とても、たまらなく思っていられる。
夏のころ、ご気分が優れず、すぐには、お里帰りをお許しされないので、ひどいと、思うのである。おめでたのご様子だったのだ。まだ、ごく弱々しい体つきなので、大変心配に、どなたも、どなたも、思うのである。

めずらしきさま
懐妊の状態である。

桐壺の御方とは、明石の女御である。また、淑景舎、とも言われる。




かろうじてまかで給へり。姫宮のおはしますおとどの東面に、御方はしつらひたり。明石の御方、今は御身に添ひて、出で入り給ふも、あらまほしき御宿世なりかし。




やっとのことで、ご退出された。姫宮がお住まいである、寝殿の東座敷に、お部屋を整えた。明石の御方は、今では、御方に付き添い、参内し、退出されるのも、うらやましいまでの、御運である。

最後は、作者の言葉。




対の上こなたに渡りて、対面し給ふついでに、紫「姫宮にも中の戸あけて聞えむ。かねてよりもさやうに思ひしかど、ついでなきにはつつましきを、かかる折に聞えなれなば、心安くなむあるべき」と、大殿に聞え給へば、うち笑みて、源氏「思ふやうなるべき御語らひにこそはあなれ。いとおさなげにものし給ふめるを、うしろやすく教えなし給へかし」と許し聞え給ふ。
宮よりも明石の君の恥づかしげにてまじらむを思せば、御髪すましひき繕ひておはする。類あらじと見え給へり。




対の上、紫の上が、寝殿にお出でになり、桐壺の御方にお逢いになるついでに、姫宮にも、中の戸を開けて、ご挨拶申し上げましょう。前々から、そのように思いましたが、何も無いのにと、遠慮していました。このような折に、お話しましたら、気が楽になることでしょう。と、申し上げる。にっこりと笑い、源氏が、望みどおり、と申すべきお話し合いです。ほんの子供子供しているが、安心するように、教えて上げてください。と、お許しになる。
宮様以上に、明石の御方との、気の張る対面を考えて、御髪を洗い、身づくろいをしておいでになるお姿は、二人といないと、見える。




おとどは宮の御方に渡り給ひて、源氏「夕方かの対に侍る人の、淑景舎に対面せむとて出で立つそのついでに、近づき聞えさせまほしげにものすめるを、許して、語らひ給へ。心などはいとよき人なり。まだ若々しくて御遊びがたきにもつきなからずなむ」など聞え給ふ。女三「はづかしうこそあらめ。何事をか聞えむ」とおいらかに宣ふ。源氏「人の答へは、ことに従ひてこそは思し出でめ。隔て置きてなもてなし給ひそ」とこまかに教へ聞え給ふ。




源氏は、宮の御殿にお出でになり、夕方、あちらの対におります者が、淑景舎、しげいさ、にお目通りしようと、出て参りますその機会に、お近づきになりたいように、申しておりますが、お許しくださり、お会いになって頂きたい。気立てなどは、大変良い人です。まだ若々しくて、お遊び相手としても、丁度よいでしょう。などと、申し上げる。
女三の宮は、気詰まりでしょう。一体、何をお話しましょうか。と、おっとりとしたお言葉である。源氏は、返事は、あちらの言うことに、自然にお答えができるものです。ご遠慮なく、お相手ください。と、細々と、教え申し上げる。

姫宮が、女三の宮として、文面に出てくる。

posted by 天山 at 07:00| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月20日

もののあわれについて702

「御中うるはしくて過ぐし給へ」と思す。あまりに何心もなき御有様を見あらはされむも恥づかしくあぢきなけれど、「さ宣はむを、心隔てむもあいなし」と思すなりけり。
対にはかく出で立ちなどし給ふものから、「われよりかみの人やはあるべき。身のほどなるものはかなきさまを、見え置き奉りたるばかりこそあらめ」など思ひ続けられて、うちながめ給ふ。手習ひなどするにもおのづから古言も、物思はしき筋のみ書かるるを、「さらばわが身には思ふことありけり」とみづからぞ思し知らるる。




御中が良く、お暮らしになさるように、と思いである。あまりに、子供子供したご様子を、見られてしまっても、恥ずかしく、面白くないが、あのように、おっしゃるのを、会わせないのも、感心しない、と思いになるのである。
対にありては、このようにご挨拶にお出になるものの、自分より上の人が、あるだろうか。生まれの、相応の貧しいところを、源氏に見られてしまっただけなのだ、などと、つい考え続けて、物思いに沈む。筆を取っても、いつしか、古歌も、物思いの筋のものばかり、筆先に出てくるので、それでは、私に思い悩むことがあったのだと、自分ながら、初めて、気が付くのである。




院渡り給ひて、宮、女御の君などの御さまどもを、うつくしうもおはするかなと、さまざま見奉り給へる御目うつしには、年ごろ目慣れ給へる人のおぼろけならむが、いとかくおどろかるべきにもあらぬを、なほ類なくこそはと見給ふ。あり難きことなりかし。




院が起こしになって、宮や、女御の君などのご様子を、可愛らしくしていられると、一人一人御覧になる、その目で見ると、長年連れ添っていられる方が、いい加減な方なら、これほど驚かれるはずもない。矢張り、二人といない、方だと、御覧になる。
ありそうも無い、お話です。

最後は、作者の言葉。




あるべき限り、気高う恥づかしげに整ひたるに添ひて、はなやかに今めかしく、にほひなまめきたる様々のかをりも取り集め、めでたき盛りに見え給ふ。去年より今年はまさり、昨日より今日は珍しく、常に目なれぬさまのし給へるを、いかでかくしもありけむと思す。




どこからどこまで、一切が気高く立派に整っている、その上に、華やかで、今風で、色艶の上品な、様々な様子も、何もかもお持ちで、今が、美しい盛りに見える。去年よりは、今年のほうが立派に、昨日よりは、今日のほうが素晴らしく、いつも新鮮な様子で、いらっしゃるのを、どうして、こんなにも、美しいのかと、思うのである。




うちとけたりつる御手習ひを、硯の下にさし入れ給へれど、見つけ給ひて、引き返し見給ふ。手などのいとわざとも上手と見えで、らうらうじくうつくしげに書き給へり。

紫の上
身にちかく あきや来ぬらむ 見るままに 青葉の山も うつろひにけり

とある所に、目とどめ給ひて、

源氏
水鳥の 青羽は色も かはらぬを 萩の下こそ けしきことなれ

など書き添へつつすさび給ふ。
ことにふれて、心苦しき御けしきの、下にはおのづから漏りつつ見ゆるを、ことなく消ち給へるも、あり難くあはれに思さる。




気を許しての、遊び書きを、硯の下に入れになり、源氏は見つけて、引き出して、御覧になる。筆跡などは、特別に上手ではないが、上品に、可愛らしく書いてある。

紫の上
身近に秋が来たようです。見ているうちに、青葉の山も、色が変わってきました。私は、飽きられたのではないのか。

と、書いてある場所に目をつけて、

源氏
水鳥の青羽の色は変わらないが、秋萩の下葉がおかしい。私の気持ちは変わらないが、あなたの方が変です。

など、遊び半分に書き添える。
何かにつけて、お気の毒な様子が、隠しても、自然に漏れて出てしまうのを、本人が、なんでもなく、気にしているのも、世に稀な、立派な方だと、源氏は思うのである。

あり難くあはれに・・・
この世にいない、稀な人という。
この、あはれ、は賞賛である。





今宵は、いづかたにも御いとまありぬべければ、かの忍び所に、いと理なくて出で給ひにけり。いとあるまじきことと、いみじく思しかへすにも、かなはざりけり。




今宵は、どちらにも行かなくとも、よさそうなので、あの忍び所に、無理をしてお出掛けになった。実に、けしからんことと、しみじみ反省するが、負けてしまうのである。

忍び所とは、朧月夜の所である。
密会・・・

何とも、このような、挿話を自然に、織り交ぜるのだ。

posted by 天山 at 06:20| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月21日

神仏は妄想である。498

ナーガルジュナの思想、空の思想に入る。

その前に、再度、言う。
仏教は、云々という言い方は、間違いである。
仏教というものを、一括りにすることは、出来ない。

上座部仏教も、大乗仏教も、様々な、教え、つまり思想がある。
経量部、中観派、唯識派・・・
更に、細かく分かれて・・・
それを、仏教という、一括りで話す人は、仏教というものを知らない。

そして、もし、それらをすべて、仏教の教義であると、言うならば、狂っている。
更に、仏教というものは、滅茶苦茶な教義となるのである。

仏教は・・・
どこの仏教の話なのか・・・
それが、問題だ。

仏陀の権威というものを盾にして、様々な、思想家たちが、争う、仏教というもの。
本当は、得たいが知れない。

更に、インドでは、言い合い、論争によって、決着をつけるという、状態である。
正しいものは、論争に負けないとする。

それならば、言い合いする者の、どちらかが、弁舌巧みであれば、通るのである。
本当は、そんなものに、付き合っていられないが・・・

これも、死ぬまでの、暇つぶしである。

仏教、あるいは、宗教学者とは、それで、食っているのである。
それが、生活の糧である。
だから、馬鹿馬鹿しい、教えの数々を説いて、平然として、蒔くことも、刈ることも、捕ることもせず、のうのうとして、生活している。

勿論、思想とは、世界を動かす原動力である。
言葉が出来てからは、言葉による、言葉の実践が重大になった。
思想は、人を生かし、国や民族を生かすものである。

だが、半面、その思想により、とてつもない、暴力や、弾圧も生まれた。
取り扱いに注意するもの、それが、思想である。
そして、宗教も、同じく。

取り扱いを誤ると、とんでもない、怪物になってしまうのである。

更に、仏陀は、人間であった。
それは、仏陀を拝むことではないということ。

そのうちに、永遠の仏陀、如来、等々、神のように、祀り拝むようになるという、愚劣である。
人間が、唯一、拝んでよいものは、自然である。

ナーガルジュナの思想・・・
多くの学者、東洋、西洋を問わず、混乱させられた。
そして、更に、その解釈である。

人間とは、本当に暇なものであると、思う。

彼の著書の主たるものは、「中論」である。
それは、般若経という経典の、神秘家が見出した、最高の真実の上に立ち、区別の哲学を批判するものである。

と、これだけで、ぎょっと、する。
神秘家の見出したもの・・・
実に曲者である。
神秘家に東西を問わず、ロクな者がいないのが、常識である。

さて、般若経は、宗教的要素、心理的要素、文学的要素が含まれ、理論的な表現の足りなさ、曖昧さを補う助けになっていたという、仰天の経典である。

それに対して、ナーガルジュナの「中論」は、神秘化、不明瞭さを避けた。
純粋に、理知的な批判の書である。

専門家は、言う。
そこに十分に書かれていない彼の神秘主義を再構成することは、たいへんにむずかしく、あぶない仕事となってくる。
らしい・・・

十分に書かれていない・・・
それは、書けなかったのだろうとは、言わない。

私なら、書ききれなかったと、言う。
更に、書けるほど、解っていなかったのかもしれない。
更に、本当は、屁理屈の極みだった。

さて、専門家の手引きで、中論、第十八章の、自我の研究という第十八章、自我と対象の研究という第十八章、などと、呼ばれる箇所を見る。

詩じゆ(公に頁)である。
この章は自我の問題の考察から始まっているが、空の問題、ものの本性の問題、真実の提議・縁起の問題・真理の永遠性などに議論は展開していて、中観哲学の基本的な立場をよく反映している。
専門家

それでは、ルージュの書いたもの・・・

もし自我が身心の諸要素と同一であるならば、それは生滅するものとなろう。身心の諸要素と別ならば、それらの要素の特徴のないものとなろう。一
自我がないときに、どうして自己の所有があろであろうか。自我と自己の所有の消滅によって、ひとは自我意識もなく、所有意識もない者となる。二
自我意識、所有意識を離れた人もまた存在しない。自我意識や所有意識を離れた人がいると見る者は(事実)を見ない。三
内と外に、「われ」もなく「わがもの」もなければ、執着は滅し、この消滅によって再生も尽きる。四

この言葉については、日本語にしてあるが、本来の言葉から、理解する、手引きが必要で、専門家は、それを主にする。

ただ単に、上記を読むと、矛盾であり、屁理屈である。
自我意識、所有意識を離れた人もまた存在しない・・・
もし時下が身心の諸要素と同一なら、生滅する。別なら、それらの要素の特徴のないもの。
自我がないのは、自己がない。
自我と自己の所有の消滅により、それぞれの意識のない者となる。
ところが、そんな人はいないと、なる。

笑う。

posted by 天山 at 05:47| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月22日

神仏は妄想である。499

結論から言えば、「中論」第十八章は、自我の否定である。

その最初の、三と四を再度、掲載すると、
自我意識、所有意識を離れた人もまた存在しない。自我意識や所有意識を離れた人がいると見る者は(事実を)見ない。三
内と外に、「われ」もなく「わがもの」もなければ、執着は滅し、この消滅によって再生も尽きる。四

自我意識を持たない人もいないのであり、それを離れた人がいると見る人は、事実を見ないのである。
だが、内と外に、「われ」もなく「わがもの」もない。
すると、執着を離れて、輪廻することもない。

自我意識を持たない人はいないのに、「われ」も「わがもの」もなければ、執着は滅する・・・
何と言う、アホなことを言うのか。

自我意識の否定である。

この人、ナーガルジュナは、その著書、大智度論でも、否定の否定の否定・・・をする。

よく解らないのである。

専門家の言葉、
自我意識・所有意識を離れた人、解脱の主体そのものも存在するのではない。解脱の主体としての絶対の自己というようなものも、なお自我意識の対象にほかならない。どこまで後退しても、自我をたてようとする人間の根本的な執着を離れてはじめて、人は輪廻から自由になるのだ、というのである。

それを書いている、当の本人が、自我の意識で、書いている。

その前に、アビダルマの哲学における、自我の否定もある。
そこでは、人間存在を五つの身心の諸要素、物質、感覚、表象、意欲、思惟、あるいは、十二領域、十八種、五位七十五法という、究極的な単為に分析する。
それぞれの本体と機能を一つずつもった、これらの単位のみが実在であり、その分類に含まれない自我―――人格の主体は、存在しないという。

上記は、上座部仏教の説一切有部の、説明である。

小乗教徒たちは、それで、死ぬまでの暇を潰していたのである。

結構な身分だ。
仏教徒の指導者というものは、こうして、しようもないことを、延々として、繰り返し、そして、死んだ。
解脱・・・
そんなことは、解らない。

そして、大乗になると、御覧の通り、更に、ルジュナのように、ゴネルのである。

更に、論敵を討つために、論を張るという、暇である。

「自我が存在する」という相手の主張を吟味するとき、その自我という概念を、それと最も密接に関係した概念を手がかりにして、論理的に二分する。人に自我があるとすれば、それは誰にとってもその存在が明らかである身心と同一であるか、別異であるかである。
身心は刹那滅的な無常な存在であるから、もし自我が身心と同じならば無常なものとなってしまう。しかし、哲学者が自我を主張するのは、無常な人間の中にある恒常的な主体―――精神・霊魂といったものを考えるからである。してみれば、無常な自我というものはおよそ意味がない。
専門家

そして、自我は身心と別異な、永遠な存在であるともいうことも、できない。
身心、物と心とは別な、生滅せず、具体的な特徴をもたないものは存在しない。存在しないものを、自我と名付けることはできない。

われわれの認識することのできるものは、無常な五群だけであるからである。
専門家

ところが、自我意識を離れたところの自己というもの、相対的な関係を越えた、絶対的な自己というものがなければ、誰が解脱するのだろうか・・・
ということに、ルジュナは応えて、解脱の主体そのものも存在するのではないというのである。

解脱の主体としての絶対の自己というようなものも、なお自我意識の対象にほかならない。どこまで後退しても、自我をたてようとする人間の根本的な執着を離れてはじめて、人は輪廻から自由になるのだ、というまのである。
専門家

こんな理屈を考えていれば、また、輪廻しているだろう。

仏教の根本的執着である、五感官の対象に対する、欲望その他・・・
その中でも、自我への執着が、最も基本である。

当然といえば、当然である。
自我意識があるから、執着があるのである。

ルジュナは、人の執着の根源となっているものを、問題として、取り上げたと、専門家が言うが・・・

勿論、そこには、般若経の空、無相、無願という、三つの三昧がある。
それぞれ、存在論的、認識論的、宗教的ないし、心理的な意味合いをもつ。
それは、無執着の境地である。

ルジュナは、無願三昧に、言及していると、専門家は、言う。

これから先が思いやられるが、これが、大乗の菩薩といわれるのである。
また、ナーガールジュナは、八宗の祖といわれる。
つまり、そこから、八つの宗派が出来たということだ。

この、ナーガールジュナとは、私から言えば、罪人である。
人を、徹底的に、迷わせた人。

更には、その妄語により、大乗仏教に、大きな影響を与え、そして、多くの人に、妄想を吹き込んだ。

ただ、評価出来るのは、仏教の天上界が、魔界であると、喝破したことである。
つまり、自分の行くべき世界が、魔界であると、悟ったのである。

それは、大いに、評価する。
魔界でなければ、このような人物は現れない。
posted by 天山 at 06:26| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月23日

神仏は妄想である。500

行為と煩悩の止滅によって解脱がある。行為と煩悩は思惟より生じる。それらはことばの虚構による。ことばの虚構は空性によって滅せられる。五
心の対象が止滅するときにはことばの対象は止息する。というのは、ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない。七
他のものを通して知られず、静寂で、ことばの虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える。これが真実の形である。九

ここには「般若経」の思想家たちの見たものと同じ神秘的直観の世界が最も理知的な表現によって語られている。
専門家

ナーガールジュナの書いたものを、解釈する様々な、解釈本がある。
初期仏典の、ダンマパダという本を、様々な人が解説するように。

神秘的直観・・・
一体、それがどういうことなのか。
それを語るために、また、本が必要である。

現代のわれわれは知・情・意という範疇をつねに意識している。そのために、人間の知的な活動、心情・意志的活動というものは、それぞれ別々な機能であり、それを混同することは無知のしるしだと思う。
古代インドの哲学者たちは、そうは考えていない。意志的なものとしての行為、心情的な煩悩―――欲望・怒り・愚痴というものは、人間の知的活動である思惟から生じてくる、という。思惟の最も基本的な形は判断であるが、感情的・意志的な執着や反発というものはその対象に関する美醜・好悪などの判断を先行させるからである。
専門家

感情的・意志的な執着や反発というものはその対象に関する美醜・好悪などの判断を先行させるからである。

それでは、最初から、そのように言えば、いいのである。

ルジュナは、これが真実の形である、と言う。
すると、その前の部分を徹底的に、解釈しなければならない。

そして、解釈の解釈が生まれて・・・
延々と、終わることの無い、言葉の世界が出来上がる。
これを、呆れる、と言う。

行為と煩悩の止滅によって解脱がある・・・
それでは、死んだ方がいいと、言えばよい。

そして、それは、思惟から生じる・・・
それらは、ことばの虚構による・・・

ことばの虚構を、その身で示しているようである。

心の対象が止滅するときにはことばの虚構は空性によって滅せられる・・・
死ねばいいのである。

ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない・・・

寝惚けたような、いい草である。

言葉の魔術に酔う人々・・・
インド哲学というもの。

ルジュナは、仏教以外の外道に対しても、批判するために、書き続けた。
外道とは、単に、仏教外の思想のことである。

当時は、様々な考え方があった。
仏陀の考え方も、そのたった、一つである。
そして、ルジュナの考え方も、である。

仏教を名乗る人たちは、仏陀という、権威を頼った。
仏陀の言うことは・・・云々である。

静寂で、ことばの虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える・・・

ルジュナも含めて、ことばの虚構によって、論じられているのである。

それ程、古代インドの思想というものは、魔的なものだった。
勿論、仏陀は、それを見抜いたからこそ、生活指導を主とした。

ある時、仏陀を訪ねた、老婆が、私は難しいことは、解りません。私でも、解るように、教えて下さいと言うと、仏陀は、悪いことを思わず、悪いことを行なわず、良いことを思い、行いなさいと、言う。

すると、それに、悪いこととは、云々・・・良いこととは、云々と、馬鹿な理屈を言う者が、現れるのである。
それが、仏教、インド思想の世界である。

終わらない議論は、解脱でもなんでもない。
勿論、涅槃など、あろうはずもない。

これでは、新興宗教の餌食に成るだけである。
解脱を説いて、反社会的行為を成し遂げた、新興宗教も存在した、日本である。

神秘的とか、直観という言葉に、騙されてはならない。
それは、信じているだけである。
仏陀は、当然、そのような言葉を口にしなかった。

死ねば、解決する問題である。
死人に口無し、という。

静寂とは、死ぬことである。
生きることは、動性であり、喧しいのである。

座禅などするより、死ぬことである。
そうすれば、静寂になる。確実に。

最高の真理の追究などという、単なる言葉に、騙されると、ひどい目に遭うのである。

思惟という言葉は、漢訳では、分別である。
原語は、ヴィカルパ。

次ぎは、その分別と、神秘的直観について、見ることにする。

posted by 天山 at 06:37| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月24日

神仏は妄想である。501

思惟とは、分別のことである。
原語は、ヴィカルパ。

その意味は、広く、思惟、思慮を意味する。
また、原語では、選言肢、分岐の意味。

漢語の分別は、分けることである。

だから、その意味するところは、判断とする。

ナーガールジュナが、思惟は、ことばの虚構に基づくという。
つまり、判断は、ことばの虚構に基づくというのだ。
ことばの虚構の、訳した言語は、プランパンチャという。

ことばの虚構を、漢訳すると、戯論となる。
つまり、戯言である。

つまり、人間の思惟は、実在とは無関係な虚構にすぎないということになる。

人間の認識というものは直観から知覚・判断・推理という過程で展開する。純粋な直観においては主観と対象の分岐もなければ、主辞と賓辞との分岐もない。直観の世界は全一な刺激である。
専門家

これを説明にするには、多くの言葉が必要になる。
だから、省略する。

私の言い方で、簡単に言えば、
見たものを、言葉にすると、それで解ったつもりになる。
本当は、それ言葉のみのものであり、実存ではない。

人間の効用、人間のことばの中で理解することがはたして客観的に確実な認識であり、そこから生じてくる感情や行為が正しいものなのであろうか。
専門家

ナーガールジュナはことばを本質としたわれわれの認識過程を倒錯だといっているのである。われわれがなすべきことは、思惟・判断から直観の世界へ逆行することだ、と教えているのである。そうすれば、ことばを離れた実在に逢着する。それが空の世界である。
専門家

空ということは、ものが本体をもたない、ということである。
専門家

空性とは、言葉を離れた、直観の世界の本質であること。

しかし、私は言う。
言葉を通して、それらは、語られる。
そして、言葉を通さなければ、それらは、語られないのである。

それが、般若経の、神秘家たちが真実を求めて瞑想した、理由である。

一つ一つの対象が消え、ことばが消え、意識が消えたあとになおありありと残る真実は、「そこにおいては心さえもはたらかず、まして文字は生じない」ものであった。
専門家

心の対象が止滅するときには、ことばの対象は止息する。
それが、ものの本性であり、生じたものでも、滅したものでもない。

それは、対立することばのいずれによってもいい表わせないもの、ことば一般を越えた世界を指示している。

ご苦労さんである。

改めて、言葉以前の時代の、心の世界を披露してくれたのだ。

ちなみに、真実という言葉を使う文は、十分に注意すべきである。
真実などとは、虚無である。

だいたい、そこまで、言葉に関して言うのに、真実も、あったものではない。

他のものを通して知られず、静寂で、ことばの虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える。これが真実の形である。
と、ルジュナの文である。

自分で瞑想し、直観しなければならない自覚の境涯であることをいう。
専門家

静寂とは本体のないこと、すなわち空のシノニムとして使われる。本体を離れているということは、ことばを実体化したにすぎない本体をもたない、したがって、思惟やことばによってあげつらわれ、はからわれることがないことをいう。思惟やことばの対象とならないから静寂といわれるわけである。したがって真実はことばや思惟の特徴である種々性、多様な展開を超越している。
専門家

瞑想による、三昧の境地・・・
死ぬまで、そうしていれば、いい。

だから、正しいことは、死ぬまで、瞑想して、死ぬことであると、何故言わないのか。
死ぬのが、怖い・・・

「般若経」やナーガールジュナの瞑想の世界をわれわれは神秘的直観としばしば呼んできた。けれども、合理主義の対立するような意味での神秘主義も、神秘主義的な要素をまったく含まないような合理主義も古代インドの哲学や宗教の中には存在しなかった。それは、インドの宗教や哲学が原則的には、人間の救済の原理を情緒的なものではなくて、知識に置いていたということにもとづいている。
専門家

凄いことを言う。
合理主義に対立する神秘主義も、神秘主義的な要素をまったく含まないような合理主義も古代インドの哲学や宗教の中には存在しなかった・・・

これが、インドの凄いところである。
しかし、残念なことは、知識に置いていた・・・

その知識に関しても、論ずる論ずる・・・
反吐が出るのである。

結局は、ことばの虚構を、語る、語る、語る。
呆れるほど、語るのである。

禅宗が、不立文字といって、言葉に出来ないといいつつ、語り過ぎるほど語るのも、頷ける。

つまり、今も、こうして、読むことが出来るのも、語り、書いてくれたお陰である。
知識として・・・

そして、専門家は、こうして、解説して、その後、解脱して、涅槃に生まれたのか・・・
疑問・・・

posted by 天山 at 06:18| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月25日

神仏は妄想である。502

神秘的な瞑想のめざすところは人間を救済しうる知識であったし、合理的な知識が人間を救済しうるためには神秘的な体験とならねばならなかった。「般若経」の思想家たちは瞑想の中の神秘的体験からすべてのものの空性という最高の知識に到達した。
専門家

最高の知識に到達した・・・
それを一体誰が、認めるのか。
誰が認定するのか。

ナーガールジュナは、むしろ、人間の合理的な思惟を批判していった極限において、その合理性の根源に横たわっている非合理性、無知に気づくことによって空の世界に入ってゆく。人間の無知を自覚させ、合理的な思惟の非合理性をあらわにする意味で、空性の知は神秘的であるのである。
専門家

非合理性、無知に気づくことにより、空の世界にゆくとは・・・

人間の無知を自覚させ、合理的な思惟の非合理性を・・・
空性の知は、神秘的である・・・

上記、一体、何を説明したいのか、解らない。

言葉の羅列は、理解できるが・・・

このような神秘性と合理性との転換は、「般若経」の思想家においても、ナーガールジュナにおいても、不二・一体の思想に導いてゆく。神秘的な直観の世界はそれ自体ことばや思惟の多元性を越えた全一なるもの、分けられないものであるとともに、それと対立している合理性の世界の根源にあるものであり、それと区別されないものである。合理性の世界がそのまま神秘的な世界と一つである。
専門家


初期仏典のダンマパダは、もっと、寝惚けた言葉が書かれている。
仏陀は、このような、議論を好むか。否である。

神秘的な直観の世界は、合理性の世界の根源にある・・・
つまり、合理性の世界がそのまま神秘的な世界と一つである・・・

言わせておけば、いい気になって。

「中論」は論争の書である。東アジアの伝統的な表現では、「破邪」をめざしているという。「中論」の「破邪」すなわち否定の論理は、あらゆる概念の矛盾を指摘して、事実に反してまでも概念を否定した、と西洋の学者によって一般に解釈されている。
中村 元

概念の矛盾・・・
事実に反してまでも、概念を否定した・・・

確かに、それもあるが、そこには、一方的で断定的な主張は、述べられてないのである。

それでは空観から出発する大慈大悲の利他行が何故成立するのか、その意義は理解されないこととなりはしないであろうか。「中論」のいわゆる「破邪」とはどのような意味であるかを考察しよう。
中村 元

そして、そのお話がはじまる。

中村氏の、お説を簡略して、書くと・・・

そもそも基本的な態度として、「空」の哲学は、定まった教義なるものをもっていない。

中観派は、自らの主張を立てることはしないのである。

もしもわたくしに何らかの主張があるならば、
しからば、まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存することになるであろう。
しかるにわたくしには主張は存在しない。まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない。
ナーガールジュナ

これで、よく解るのである。

主張は、存在しない。だから、理論的欠陥も存在しない・・・
よくぞ、このような、言い逃れが出来たものである。
実に、賢い。

要するに、他の批判を受け付けないのである。
それは、何も主張が無いから・・・

こんな者に、付き合っている面々である。

主張が無いといいつつ、延々と、主張を繰り返している。
これぞ、手である。

相手の批判も非難も、受け付けない。

私には、論というものがない。故に、私を批判する事は、できない。
そうして、延々と、膨大な書き物をしたのである。

このような根性は、ただ事ではない。
インド人の得意な手だ。

ルジュナの弟子も言う。
もしも「事物が」有るとか、無いとか、有りかつ無いという主張の存在しない人―――いかに長い時間を費やしても、かれを論詰することは不可能である。

コノヤローと言われて、殺された。

議論の相場を壊したのである。

中観派にとってはみずから独立な推論をなすことは正しくない。何となれば二つの立論の一方を承認することはないからである。
哲学者 チャンドラキールティ

であるから、主張命題も、理由命題も、実例命題も、用いてはならぬと、主張している。

したがって「中論」の用いる論理は推論ではなくしてプラサンガ(帰謬論法)である。
きびゆう論法・・・

それは、決して、自説を主張することではなく、論敵にとって、願わない結論を導き出すことなのである。

これほどの努力を、別なエネルギーに使えば・・・
世界は、そして、インドは、もっと、良い場所になった。

論争の果ての、論争・・・
実に馬鹿馬鹿しい。

posted by 天山 at 06:14| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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