2014年09月01日

国を愛して何が悪い153

今日我々が仏像の名で総称しているものを、正確に分類すれば、仏像(如来と釈迦)、菩薩、明王像、諸天像、鬼神像などである。すべて経典にしるされた固有の性格、その作用、その意味を造型化したもの、つまり「思想像」である。仏教伝来とは、この大群像の伝来であり、言わば新しい「神話」の世界の展開であった。古代人の想像力はここに一大変化を迫られた筈である。
亀井

確かに・・・
思想像とは・・・

推古天皇32年の調査によれば、当時の寺院は、46ヶ所、僧尼1385人である。
法隆寺は、国家経営の天皇勅願寺であり、各氏族は、それぞれの氏神を祭っていた、その形式を、踏襲するかのように、氏寺を建立した。これは、智識寺と名付けられた。

大化の改新以後は、天智天皇勅願の崇福寺、天武天皇勅願の、高市大寺、持統天皇には薬師寺がある。

勿論、現在は存在しない、多くの寺もあった。

そこで、特に注目すべきは、天武天皇14年の、詔である。
「諸国の家毎に仏舎を作り、すなわち仏像と経とを置きて礼拝供養せよ」

これは、個人の家ではなく、諸国の国府、国司の政務を司る官家を指すといわれる。
寺院ではないが、仏礼拝が国家統制の傾向を帯びてきた現われである。
奈良朝における、国分寺建立の先駆けと言える。

つまり、国教化である。

奈良朝に至ると、総国分寺としての、東大寺をはじめ、北は陸奥出羽から、南は薩摩まで、全国に渡り、68ヶ所の国分寺、そして、国分尼寺が建立された。

それは、天平東大寺を模した、大規模な伽藍である。

推古天皇から、奈良朝まで、どれだけの、諸像が造られたか・・・
驚くべき数にのぼるだろう。

国分寺は勿論のこと、寺院の多くは、三重塔、五重塔を持っていた。
それらは、朱塗りの塔であり、人々の住む場所に、そららは、聳え立っただろう。

全く、今までには無い、風景である。

文献の上からみて、思索において甚だ貧しかった古代人も、造寺造仏においては精密に思索し、高度の知性を発揮したことは、仏体のあらゆる微妙性の追及にみられる。むろん大陸の模倣から始まり、帰化人技術者の指揮なしには不可能であったが、年月を経るにつれて、帰化人の同化、混血の累積、日本人の習熟によって、次第に独自の造型力を示すに至った。
亀井

飛鳥、白鳳、天平・・・
時代を経るに従い、諸像の形態は、写実性を帯びる。
だが、亀井は、それを、「仏像の進歩」として、受け取ることは、有り得ないと言う。

それぞれの仏像は、その時代において絶対的存在であった筈だ。
亀井

発願の動機の、絶対性・・・
それに支えられた、仏像制作である。

私は、あるいは、仏像があっても、あまりにも貴いものとして、見ることも、拒んだのではないかと、思える。
ただ、その前に、額ずくことが、精一杯だった。

あまりに、ありがたくて・・・

解釈と説明とは、現代的な思考である。
そして、それをすべてとすれば、見えなくなる。
古代人の姿である。

亀井も、仏像の発願ということに、重きを置く。
病気快癒・・・
国家安泰・・・
あるいは、先祖供養・・・しかし、それは、後々のことである。

仏教の死後の世界は、後々で、現れる。

それは、つまり、
諸々の仏像とは、美的鑑賞の対象ではなく、彼らは、造形美を追及したわけでもない。経文の意味の造型を通しての感知であり、意味への礼拝であった。
亀井
と、なる。

意味への礼拝とは・・・
これは、現代人には、測り知れない思いである。

それでは、それを作る側、仏師の側を考えると、彼らは、人々の発願と、意味への、礼拝に相応しい像の作成に、心血を注いだ。

それに応えるべくの、試練である。
つまり、彼らは、経典を理解した・・・
その内容と意味を、理解しなければ、着手出来ないのである。

仏師は、そのまま、僧になる。
そして、その多くが、無名である。

造仏技術とは、造型技術であるとともに信仰の行為であった。言わば特殊な材料による信仰の感覚的消化の過程を意味した。
亀井

更に、彼らは、寺の内部のプロデューサーでもある。

それは、儀式の行なわれる場合の、仏像の有り様などを、考慮し、仏像を、どのように効果的に安置するのかを、考えたはずだ。

後に、空海が見せた、マジックのような効果を、すでに彼らは、意識していた。

だが、それは、純粋無垢である。
それが、彼らの信仰だった。

焔に浮かぶ仏像の実在性を、徹底的に感得しただろう。

人間界とは、別な世界・・・
それは、仏という世界・・・
それを寺の内部に、創作したのである。

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2014年09月02日

伝統について73

白袴の わが衣手に 露は置き 妹は逢はさず たゆたひにして

しろたえの わがころもでに つゆはおき いもはあはさず たゆたひにして

白袴の私の袖に、今や霜がおき、あの娘は逢ってくれない。ためらっているのだ。

たゆたひにして・・・
この心情こそ、日本人の心の底辺に流れる風景だ。
それが、曖昧さと、非難された時代もある。
しかし、たゆたひ、こそ、心象風景の美しいものはないと、日本人は思う。

かにかくに 物は思はじ 朝露の わが身一つは 君がまにまに

かにかくに ものはおもはじ あさつゆの わがみひとつは きみがまにまに

あれこれと、物思いは、しない。朝露のように、儚い私の身の上は、あなたの心のままに。

つまり、委ねると、言う。

私の身は、あなたに委ねる。
恋の最高の心境である。

相手に、委ねるほど、恋している。

夕凝りの 霜置きにけり 朝戸出に いたくし踏みて 人に知らゆな

ゆふこりの つゆおきにけり あさとでに いたくしふみて ひとにしらゆな

夜のうちに、凍った霜が置いている。朝戸を開けての帰りに、強く踏んで、音を立てて、それと人に知られるな。

逢引の後の朝である。
人に知られぬようにとの、強い思い。

かくばかり 恋つつあらずは 朝に日に 妹が履むらむ 地にあらましを

かくばかり こひつつあらずは あさにけに いもがふむらむ つちにあらましを

これほど、恋に苦しまずに、朝となく、昼となく、いつも妻が踏む土なら、よいものを。

自分が土になり、ついも、妻に踏んでいて欲しい。
つまり、いつも、一緒にいたいのである。

このような、比喩を用いる歌詠み・・・

あしひきの 山鳥の尾の 一峯越え 一目見し児に 恋ふべきものか

あしひきの やまとりのおの ひとをこえ ひとめみしこに こふべきものか

あしひきの、山鳥の尾ではないが、一峯を越えて、一目見たあの娘に、恋していいのか。

一目惚れである。
瞬間の恋・・・

吾妹子に 逢ふ縁を無み 駿河なる 不尽の高嶺の 燃えつつかあらむ

わぎもこに あふよしをなみ するがなる ふじのたかねの もえつつかあらむ

吾、妹子に逢う術がない。駿河の富士山の高嶺のように、心だけが燃え続けいよう。

自分に言い聞かせる様子である。

逢う術がないとは、片恋の苦しみか・・・
相思相愛ならば、尚、苦しいだろう。

燃えつつかあらむ・・・
続けて、恋して行くと、宣言している。

実に素直で、純朴である。

日本の心・・・

posted by 天山 at 05:46| 伝統について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月04日

霊学177

魂界の第五段階は魂の光の段階である。
シュタイナー

それ以前に、第一、第二、第三、第四の段階があった。
仏教の諸派にも、悟りの段階が相当数あり、似ていると感じた。

この段階では、他のものに対する共感がすでに重要な意味をもつ。この世の生活の中で低い欲求だけを満足させようとはせず、与えられた環境に対して喜びと愛情を感じることのできた魂は、この段階に親しみをもつことができる。
シュタイナー

魂界の話だけではない。
現実の生活の中でも、あり得ることである。

たとえばこの段階で浄化を受けるだろう。しかし自然体験には、もっと高次の、霊的性格のものがある。それは自然の事物やそのいとなみの中に顕現する霊を体験しようとする場合である。このような自然感情は、その人の霊性を開発し、魂の中に永続的部分を築き上げる。

しかし感覚的享受を動機にもつ自然体験はこの自然感情とは異なる。魂は物質的なものだけに向けられた欲求と同じように、このような自然体験をも浄化しなければならない。
シュタイナー

日本の伝統的な自然に対する考え方・・・
それは、これを超えている。

宗教活動を通して物質生活の向上を期待していた人々の魂も、この領域で浄化を受けることになる。その人々の憧憬の対象が地上の楽園だったのか、それとも天上の楽園だったのかはどちらでもよい。いずれの場合も、このような人々の魂は「魂の国」の中でこの楽園に出会うであろうが、それは結局、このような楽園の空しさを悟るためなのだからである。
シュタイナー

宗教的霊性と、シュタイナーの霊性を比べることは、しない。

第六の領域は、活動する魂の力の領域である。

利己的性格をもたなくても、行為の動機が感覚の満足にあるような事業欲は、この領域の中で浄化を受ける。
シュタイナー

理想主義者、犠牲的精神に富んだ人も、それは、感覚的な快感の高まりなのであると、言う。

芸術的な人や面白いというだけの理由で学問的研究に没頭している人の多くは、この部類に属する。芸術や学問の存在理由がそのような面白さにあると信じることが、彼らを物質界につなぎとめているのである。
シュタイナー

だから、この領域で浄化を受ける・・・

そして、本来の魂の生活の領域である、第七領域は、感覚的物質的世界への執着から最終的に人間を解放する。

最後に残された魂の部分は感覚的世界のためにすべてを捧げて働くべきだという考え方であって、これが霊を依然として覆い包んでいるのである。
シュタイナー

非常に優れた人物の中にも、物質界の事象以外のことはあまり考慮しようとしない人がいる。そのような信念を唯物論信仰と呼ぶことができるだろう。
シュタイナー

シュタイナーの言う、唯物論である。
更に、唯物論信仰・・・

優れた人ほど、唯物論に陥りやすいだろう。
そして、その人たちの霊界も、存在する。
唯物論者でも、霊界入りするのである。

この領域で魂は、真の現実の中には唯物論信仰の対象となるようなものは何も存在しないということを悟る。
シュタイナー

違う。
勿論、肉体を失った後に、つまり死後の世界にて、更に、唯物的な問題に取り組む人たちもいる。

ということは、シュタイナーによれば、低い段階にいるということになる。

その領域では、
魂は今や魂界に残りなく吸収し尽くされ、霊はあらゆる束縛から自由になる。霊は今、彼本来の諸領域へ向って飛翔する。それらの領域においてのみ、霊は自己本来の環境の中にいる、ということができるのである。
シュタイナー

魂は生前のこの世の課題に応えてきた。そして死後、この課題のうち霊にとって束縛であったものが解消された。魂は地上生活のこの残滓を残りなく捨て去ることにより、魂自身、その本来の領域の中に還元されるのである。
シュタイナー

魂は、この世の生活の中であらかじめ作られてきた条件次第で、以上の諸領域のどれかに長く留まったり、短く留まったりする。
シュタイナー

魂界も、霊界も、この世の言葉で表現するのは、実に難しい。
それをシュタイナーは、書き続ける。
それは、評価できることである。

しかし、そこに佇んだ時に、人間の存在は、知るのである。

死後の世界を知ることは、正しいことだが・・・
現実の世界を生きることは、もっと、難しいのである。

それは、人生は、あまりに苦悩に満ちている。
そして、不幸に満ちているのである。

神智学が、救いにならないのである。
霊学も、然り。

勿論、宗教を信じるように扱えば、一つの救いとなることも、可能だが・・・

何一つ、人生の問題は、解決しない。

例えて言えば、いい気なものである。

このように、難しく考える必要は無い。
人生を生き抜くことが、できれば、必ず、助け手が、差し伸べられるだろう。

それは、神でも、仏でも、霊学でもない。
私である。
私の存在に私が出会うことにより、救われるのである。

魂、霊・・・
そんな言葉を必要としない、世界がある。

だが、引き続き、シュタイナーの霊界を見る。

posted by 天山 at 06:00| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月05日

霊学178

いよいよ、霊界である。

この世界は物質界と全然似たところがないから、物質的感覚だけに信頼をおく人には、すべてが空想としか思われないであろう。
シュタイナー

更に、語ろうとすると、比喩になる。
当然である。
質も、次元も違うのである。

更に、物質的感覚だけを頼りにする人とは・・・
霊界に入らないだろう。

特に強調しておかなければならないのは、霊界が、人間の思考内容を織り成す素材とまったく同じ素材によって、織り成されているということである。
シュタイナー

この、素材という言葉も、比喩、暗示的である。

人間の思考内容の中に生きている素材は、この素材の真の本性の影であるに過ぎず、図式であるに過ぎない。影に投影された事物の影がその事物そのものに対するように、人の頭に浮かぶ思考内容は、この思考内容に対応する「霊界」の存在に対している。
シュタイナー

わざわざ、回りくどい、言い方をしている。

この霊界を、実相と名付けて、霊界を説明する人もいる。
この世は、写し世であるとか、仮の世とか・・・

まず物質界と魂界に存在するすべての事物や生物の霊的原像がこの世界に現れてくる。
シュタイナー

問題は「霊界」の中に、すべての事物の原像が存在する、そして事物や生物の物質的存在形態はこの原像の模造に過ぎない、ということなのである。
シュタイナー

確かに、下記のような人は、いる。

外部感覚だけに信頼をおく人はこの原像の世界を否定するであろう。そして原像とは、悟性が感覚的に知覚できる事物を比較しつつ作り上げた抽象概念なのだ、というであろう。なぜならこのような人は高次の世界を知覚していない訳だし、思想の世界を抽象的な図式においてしか知っていないからである。そのような人は彼自身が犬や猫を知覚するのと同じ身近さで見霊者が霊の存在を知覚するのだということも、原像の世界が感覚的物質的世界よりもはるかに強度の現実性をもっているということを、知らないのである。
シュタイナー

知らない人に、知ることを教えても、無理だ。
知らないとは、存在しないと、信じているからだ。

更に、シュタイナー独特な言葉遣いと、回りくどさに、辟易してしまう。

そして、重大なことは、シュタイナーも、己の霊界しか、知らないのである。
様々な、霊界の著作物があるが・・・
それぞれが、皆、同じ霊界とは、限らない。また、それぞれが、霊界の、一断面である。

霊界では一切が絶え間ない活動状態を保ち、止むことのない創造行為を続けている。物質界に存在するような休息とか停滞とかということは、ここには存在しない。なぜなら創造する本性が原像なのだからである。原像は物質界と魂界に生じる一切のものの創造者である。
シュタイナー

ここで、解ることは、シュタイナーの霊界は、物質の世界の霊界であるということが、察せられる。

原像の形態は急速に変化する。どの原像にも無数の特殊形態をとる可能性が存する。いわば特殊形態を自分自身の中から湧き出させる。原像は一つの形態を産み出すかと思えば、すぐにまた次ぎの新しい形態を出現させる。そして或る原像と別の原像とは互いに、多かれ少なかれ親密な関係にある。
シュタイナー

この、シュタイナーの物質的霊界に関しては、インド仏教思想家たちが、徹底的に、その存在の空なることを、議論している。

空とは、単なる、無ではない。
因果律のことである。

だが、先を進む。

「霊界」の中には、「霊視」されるものの他に「霊聴」の対処として考察すべき原像が存在する。
シュタイナー

ここから先は、オカルトと言える世界である。

「見霊者」が魂界から霊界へ上ると、やがてその知覚された原像は響きはじめるようになる。この「響き」は純粋に霊的な事実である。それは物質界の音とはまったく別様に理解されなければならない。・・・そしてこの音響、この霊的響きの中で、霊界の精霊たちが自己を語る。
シュタイナー

これは、もう、十分に物質の霊界であると言うことが出来る。

この音響の和声とリズムと旋律の交響する中で、彼らの存在の原則や相互関係、親和関係が明瞭に示される。物質界の中で、悟性が法則や理念として認めるものが、「霊耳」には霊的音楽として表現される。
シュタイナー

ピタゴラス派が、霊界のこの知覚内容を、天体音楽と名付けたと、言う。

ここではまさに「霊的知覚」が問題なのであり、「感覚的な耳」にとっては沈黙でしかないような知覚が問題なのだから。・・・
シュタイナー

物質の世界の霊界ならば、比喩でも、暗示でもない。
その通りであろう。

霊界と言っても、様々有り、更に、それぞれの霊界のそれぞれがある。

人間も、物質のひとつであるから、誤りではないが・・・
人間の、霊性と、その霊界とは、異質である。

posted by 天山 at 06:17| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月06日

霊学179

したがって、「形象」として「光輝くもの」として述べているものは、同時にすべて「響きを発するもの」でもある。色と光を知覚するとき、霊的な音が、そして色の組み合わせによる効果には和声や旋律等が同時に聞えているのである。また、音響が支配しているところでも、「霊眼」の知覚活動は止んでいない。
シュタイナー

常に響きには、輝きが、対応しているのである。
物質の霊界では、そうであろうが・・・

「霊界」においても、位置づけが正しく行なえるように、特定の段階もしくは領域を分類しておかなければならない。個々の領域は「魂界」の場合と同じように、ここでも層をなしてはっきり上下に区別されるのではなく、相互に浸透し合い、混淆し合っている、最初の領域には物質界の中の無生物の原像が存在している。
シュタイナー

ここから重要である。
鉱物の原像、さらに植物の原像もここに見出せるが、その場合は、植物が純物質的である限り、つまり生命が考慮されぬ限りでの植物の原像なのである。だからここでは動物や人間の物質的形態にも出会う。
シュタイナー

つまり生命が考慮されぬ限りでの植物の原像なのである・・・
これは、誤りである。

この領域が「霊界」の土台をなしている。
シュタイナー

これで、シュタイナーの見ている霊界が、矢張り、物質の霊界であることが、解る。

この領域と物質界との関係は比喩的にしか述べることができない。
シュタイナー

この関係については、次のように考えることによって、ひとつの観念を得ることができる。或る限定された空間に、あらゆる種類の物体がつめこまれているとしよう。今、心の中でこれらの物体を消し去り、それらの占めていた空間に、それらの形が残した虚空間を考える。一方、それまで何も存在していなかった空間(虚空間)の部分は、消し去られた物体たちと多様な関係をもつありとあらゆる形態によって埋め尽くされている、と考えるのである。
シュタイナー

これは、マジックである。
そこには、トリックがある。

このような、無用な観念は必要ない。
この、シュタイナーの霊的観念に、取り込まれると、抜け出せなくなる。

原像世界の最下位の領域はほぼこのような形相を呈している。そこでは、物質界の中に形態をもっている事物や生物が「虚空間」として存在している。そしてこの虚空間を取り巻く空間の中では、原像の(そして「霊的音楽の」の)活発な活動が行なわれている。物質界にあっては、この虚空間の部分を物質の素材がいわば充満している。肉眼と霊眼とを同時に働かせて空間を観察するなら、物体の存在と同時に、物体と物体との間に、創造する原像が活発に働いている様をも観るだろう。
シュタイナー

それが、シュタイナーの見た、霊界の最下位である。
と、いうことは、矢張り、物質の霊界なのであり、更には、それを見られるのは、彼一人だろう。
それは、彼の、霊界なのである。

これから、第二の領域、第三の領域と続くが・・・

別の意味の霊界として、理解しつつ、見ることにする。

第二の領域には、生命の原像が存在している。しかし生命はこの領域の中のひとつの完全な統一体をなしている。それは液体成分として、霊界のいたるところに流れ込み、いわば血液のように脈打ちながら、あらゆるところまで及んでいる。
シュタイナー

思考内容を素材にした流動する生命、人は「霊界」のこの第二段階をそう名付けることができよう。この流動する生命という活動領域の中に、物質的現実の中で生命ある存在として現れるすべてのものの根源的創造力が存している。この領域の中では、一切の生命がひとつの統一体であり、人間の生命もその他一切の生命仲間の生命と同質である、ということが示されている。
シュタイナー

生命・・・他の生命と同質である、は、当然である。

この次元の生命は、すべて、生命という存在として、同質というより、同通と言う方が、合っている。
同通する、生命なのである。

私は、以前に、シュタイナーを学ぶことは、生きていることの、注意深さを学ぶことだと、言った。
注意深く、この世を見れば、シュタイナーを理解できる。

霊学を知る人は、当たり前の事である。
しかし、シュタイナーの霊界、そして、その訓練法などを見ると、怪しいのである。

怪しい、というのは、過ちに近いが、それでは、その私の判断は、どこからのものかという、問題がある。

多くの、霊界参入を俯瞰して・・・
それぞれが、それぞれの、霊界を見聞した様を、報告している。
それを、振るい分ける。

その規準は、私の感受性である。
更に、妄想に入り込まぬように、細心の注意を払う。

他の人に、見えない世界は、見たと言う人の、独断場であり、その人の妄想全開の場合、多々あり。
そして、何にせよ、この次元では、証明できないのである。

それでは、方法があるか・・・
それは、信じることになる。

信じた者には、適わない。
何故なら、信じた者は、騙されるからである。

信じる前に、学ぶことを疎かにすると、人生を誤る。
posted by 天山 at 05:54| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月07日

霊学180

「霊界」の第三領域としては、一切の魂あるものの原像が挙げられねばならない。人はここでは、はじめの二つの領域よりも、もっと精妙な領域の中にいる。比喩的にそれを「霊界」の大気圏と名付けることができる。
シュタイナー

この、比喩的が、問題である。
別の人が、それを表現しようとすれば、別の著し方になる。

物質界や魂界で魂がいとなむすべては、この領域にその霊的対応物をもっている。一切の感情、本能、情念は霊的な在り方でこの領域内にもう一度現れる。
シュタイナー

読み進むにつれて、益々と、解らなくなる、世界である。

この霊界の大気圏における気象状況は物質界、魂界での生物の苦しみと喜びに相応している。人間の魂の憧れは微風のように現れる。激情の発作は暴風のようである。
シュタイナー

これは、当然なことである。

この領域の観察内容に通じている人は、どの生物に注意を向けても、その生物の嘆きに深く入っていける。
シュタイナー

すべて、比喩である。
いや、比喩的なのである。

第四の領域の原像は物質界、魂界とは直接関係をもたない。この原像は或る点では、以下の三領域の原像を統率し、相互の連繋を可能にする本性たちである。したがって彼らは下位の三領域の原像に秩序を与え、組分けする仕事に従事している。だからこの領域は下位の三領域よりももっと包括的な役割を引き受けている。
シュタイナー

更に、第五、第六、第七領域がある。

これらの領域の本性たちは下位領域の原像に活動の原動力を提供するのだから。
シュタイナー

本性たちは・・・
これも、比喩的なのである。

この高次の諸領域にまで上がることのできた人は、われわれの根底にある「意図」を知るようになる。
シュタイナー

実に、曖昧で、漠然としている。
つまり、比喩的なのである。

ここにも思考存在として多様極まりない形式をとっている原像が、生きた胚種として存在している。
シュタイナー

この言葉の数々を、説明抜きでは、理解できないのである。
そして、それを説明できるのは、ただ一人、シュタイナーのみである。

物質界における人間精神の創造性の源である諸理念は、霊界の高次領域におけるこの思考種子の影であり、残照である。
シュタイナー

壮大な言葉の羅列は、人をかく乱させる。
非常に危険である。

ここで知っておく必要があるのは、以上の思考種子が合成されたものだということである。思考世界の成分からいわば胚乳だけが取り出される。そしてこの胚乳が本来の生命の核を包んでいる。この生命の核とともに、われわれは「三つの世界」の限界に達したことになる。なぜならこの核は三つの世界よりももっと高次の諸世界に由来するのだから。
シュタイナー

人間以外の世界(宇宙)存在者たちにも同様の生命核が存在する。これらの核はもっと高次の諸世界に由来し、自己の使命をそこで成就するために、この三つの世界に移されているのである。
シュタイナー

これは、もう、オカルトと、呼んでもいい状態である。

このシュタイナーの世界から、能力を得ている人たちは、それを本当に理解しているのかどうかは、解らない。
シュタイナーの比喩的著作から、その意味を汲んで、勝手に理解し、あるいは、行為しているのである。

更に、それが、他人を巻き込むような行為ならば・・・
罪である。

これは、宗教を信じるのと、同じ扱いになる。
極めて、個人的な行為である。
シュタイナーの著作を批判しても、彼らを、批判する事は出来ない。

次ぎは、死後の霊界における霊・・・

人間の霊は、死後から新たに再生するまでの途上で、「魂界」を遍歴した後「霊界」に入り、新しい肉体をうけるための機が熟すまで、そこに留まっている。
シュタイナー

それを事細かく、書き続けるのである。
だが、それも比喩的である。
次元を別にする世界を、描くのは、妄想に陥る。

勿論、妄想でなければ、書くことが、出来ないだろう。
想像ではない。

この「霊界」潜在の意味を理解するには、輪廻転生の意味が正しく解釈できなければならない。
シュタイナー

二度と生まれないために・・・
と、インドでは、修行に励んだ。
そのインドの思想家たちでも、輪廻転生に関しては、明確ではない。
明確なのは、この世の、理論である。

その、シュタイナーの、輪廻転生の意味を、知るべきことが、必要である。

輪廻と、転生に関しても、人それぞれが、違うのである。

posted by 天山 at 05:59| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月09日

整体10

心は、何処にあるのか・・・
何処に、存在するのか・・・

様々な分野で、議論されるが・・・
身心医学、現在の心療内科といわれる、医療の分野での、定義を見る。

それは、つまり、脳の生理学からとられたものである。

脳は、脊髄に続いている。
脳の中には、一本の軸があり、上から下にかけて、間脳、中脳、延髄と、名付けられる。
これらを、まとめて、脳幹と呼ぶ。

この間脳の部位から、大脳皮質が、この軸の先端をとりまく形で、延びている。
大脳は、左右の一対の大脳半球からなり、小脳は、橋の背面につながる。

人間の精神活動の根源となる、神経細胞は、140憶個であり、それが、集結して大脳皮質となっている。

身心医学では、この、精神活動を、心と、定義する。

皮質には、古い部分と、新しい部分がある。
新しい皮質は、爬虫類あたりからはじまり、人間が動物としては、高等である。

人間では、新しい皮質が、90パーセントを占めて、古い皮質は、大脳半球の中に押し込められている。

新しい皮質は、部位により、それぞれ分業が行なわれる。
中心溝をさかいに、後半部には、体の内外からくる情報信号を受け入れる、感覚の中枢がある。

中心溝の前には、運動の中枢がある。

内外の刺激を受け入れる中枢と、その刺激に反応して、運動を起こす中枢の二つは、単純野と、呼ばれる。

よりよく、生きるというための、統合的な働きをする部分は、連合野と呼ばれ、新しい皮質の広い領域に渡る。
そこでは、感じる内容を、過去の体験、記憶に照らして、理解する働きをするのは、中心溝より後半部にある、二つの連合野である。

思考し、計画し、創造するのは、中心溝より、前にある、前頭連合野である。

またここは、人間らしい、高等な感情や意志の、中枢でもある。

この人間らしいとは・・・
自然に、身に付くものではない。
教えられて、学習していくのである。

人間の高等な、精神活動を知情意に分けると、知は、中心溝から、後半部に、情と意は、中心溝より、前方で営まれる。

さて、脳細胞の140憶個は、すべて、使用されているかといえば、せいぜい、40から50憶だと、言われている。
どんな人も、同じである。

一つ一つの細胞からは、突起が、四方八方に出ている。何かを考えると、或る細胞の突起が、他の細胞と接触し、それを通り、電気的刺激が、細胞から、細胞へつながる。

そして、一つの考えに結実される。

電気的刺激だから、プラスとマイナスがある。
積極性は、プラス、消極性は、マイナスと、単純に理解する。

頭が良くなるということは、細胞間の交流が、複雑微妙になるということである。
だから、単細胞と、人を見下す場合もあるのだ。

一つ覚え式の、考え方のみする人は、交流が単純であり、回転の速い人は、複雑な様式が出来ている人だ。
ただし、それ以前に、性格というものもある。

新しい皮質が、知性の座、といわれる。
古い皮質は、本能の座、といわれる。

本能の座は、食欲、性欲、集団欲、睡眠欲などの、本能的な欲求や、快、不快という情動の心、記憶のからくりなど、命を保つために直接必要な基本的に、心の働くところと、見ている。

情動というものは、心なのか・・・
それは、本能の欲求が充たされない時に、不快感、満たされた時の、快感、そして、怒り、恐れなどを、情動と呼ぶ。
これらは、いずれも、古い皮質のもう一つの内側に位置する、間脳の中にある、視床下部と、古い皮質とが、関係して、作り出される。

つまり、それが、心・・・

あるグループは、心は、腹にあるという。
それは、視床下部は、また内蔵の働きをコントロールする、自律神経や、ホルモンなどの、中枢とされているからか。

つまり、ここでは、本能、情動の座と、内臓の働きを調節する中枢とが、密接に結び付いているということを確認する。

そして、古い皮質は、知性の座である、新しい皮質のコントロールを受けているという、事実は、心と体を、考えるという意味で、身心医学では、定義している。

間脳よりも、下位にある脳間部には、呼吸、心臓の働き、分泌、その他の内臓の働き、筋肉の緊張度などを支配する、更に、原始的な中枢が、集まる。

身心医学の、心の定義から見れば、脳の中に、心が存在し、その心と、体の不調和を扱う医学の分野であることが、解る。

その心療内科は、精神科でもなく、内科でもない。
心と体の、つながりから不調和を起こしている、患者を扱うのである。

精神科に行きづらいが、心療内科には、比較的、行きやすい・・・
そういう意味では、精神的不調和の解決に、貢献した医学である。

だが、厳密には、精神病は、扱わない。
あくまでも、身心医療である。
心が、体に起こす、病を治療する場所である。

posted by 天山 at 05:46| 整体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月10日

整体11

人間の脳の中で、間脳を含めた脳幹部は、基礎的な生命活動を司る、植物的生命の座といえる。

整体は、これを、最も重んじる。
その、植物的生命の座に対して、働き掛ける作用が、整体である。

更に、その整体が、術になるのか、学になるのかは、人それぞれである。
その施術者の、考え方による。

どちらが良いのか、悪いのかという、問題ではない。
最も、どちらでも、いい。
ただ、整体の真意を探ると、更に、深まって行く。

その前に、何度か、同じ繰り返しになるが・・・

それは、自律神経、植物神経とも言われる。
と、共に、ホルモンなどの方法により、生体の内部環境を安定した状態に、保つ。
それを、以前、ホメオスタシス、恒常性と言った。

外部環境の変動に対して、この恒常性を保つために、生体は、適応現象を行なう。

更に、脳幹部は、その体の調節だけではなく、情動の安定化も図るのである。
だから、体だけを扱うというのは、間違いになる。

体と、心は、一体であるから、心、情動の作用にも、整体は、関わるのである。

脳幹部による、恒常性の営みをスムーズに行なうことにより、健康な状態が保たれる。
そのためには、脳幹部を、上位からコントロールしている、本能の座、つまり、古い皮質と、知性の座、つまり、新しい皮質の間に、軋轢が無いことが、重要である。

両者の関係が、調和しているということ。
ただし、それも、人それぞれだ。

理性と本能の葛藤、軋轢により、脳幹部が、混乱し、恒常性が、保たれないと、様々な、身心の変調が起こる。

ここから、解ることは、人間の健康、その安定とは、植物的生命の座の働きが、安定して、円滑に行なわれることなのだ。

そして、本能の座も、働きが活発であり、知性の座も、その営みが健やかであること。

この三つの、関係が、すべて脳にあるということ。
そのように、身心医学では、定義、観念している。

整体は、恒常性に深く関わる。
つまり、整体施術というのは、恒常性に対する、試みなのである。

その中には、様々な、方法が取り入れられるべきである。

高齢者に対しては、ただ、肌を摩るという、刺激だけでも、効果がある。
更に、その掌に、特に癒す力があれば、それこそ、手当てである。

再度書くと、心、身心医学の場合は、脳と、体を結ぶルートして、神経系と内分泌腺の二つがある。
その、神経系には、中枢神経系、つまり、脳、脊髄と、末梢神経がある。

末梢神経系は、中枢神経系と、身体の諸器官を結ぶ役目をする。
働きの上では、植物神経系、つまり、自律神経と、動物神経系、つまり、体性神経系とに、区分けする。

自律神経が、いかに、大切なことか・・・
それは、消化、呼吸、血液の循環、排泄、生殖などという、基本的生命を保つ、欠く事の出来ない働きをする。

その自律神経の一つである、交感神経系は、体内に貯蔵されたエネルギーを駆使して、生体が、活動しやすい状態を作る。
対して、副交感神経系は、交感神経系の興奮によって引き起こされる、諸器官の変化を、元に戻し、消耗されたエネルギーを、補充するのである。

整体療術は、特に、副交感神経系に対して、働かせると、私は考える。

要するに、興奮を鎮めるのである。

日本には、その所作が、鎮魂法として、存在していた。
それは、そのまま、副交感神経系の回復である。

そして、魂振り、たまふり、とは、交感神経系の興奮を言うのである。

それを、神が懸かる、神が去ると説明していた。

魂振りである、動物神経系は、人体を環境に適応させる働きを持つ。
更に、人間らしい、身心の活動をもたらす。

この、人間らしいとは、何か。
整体の方法は、その人間らしさに、行き着くことになる。

つまり、哲学である。

人間らしさ・・・とは、
人間として、生きるとは・・・

例えば、身心の不調和があり、人間らしく、生きられないとしたら・・・
その逆もある。

すると、健康とは、何かという問題になる。

勿論、健康の状態は、今まで書いた通りである。
が、体が病んでも、心が、健康だという場合もある。

この場合の、心とは、脳である。

だが、脳を心と、捉えるのは、それ以外で、証明することが出来ないが、故である。
心が、脳とは、また別な存在だとしたら・・・

そして、その可能性が、高いのである。
しかし、心と、脳と、体は、結び付いている。
ここが、肝心なところである。

脳が、指令を出す前に、別なところからの指令が、発せられる。
それが、心である。

それも、また、整体の事実である。

posted by 天山 at 05:52| 整体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月11日

整体12

身心医学から見ると、適応と病気が、結び付く。

適応障害という、病名もあるほど、適応とは、大変なことである。
これを、平たく言えば、欲求の解消がうまく出来ないということになる。

欲求と、それを禁じる心の働きを、葛藤と呼ぶ。
人は、これらの欲求不満、葛藤を、どのように受け入れ、対処してゆくのか。

欲求不満により、生ずるところの、心の、もつれ、というものは、体に作用する。
それが、単に、肩こり、頭痛、部位の痛みなど・・・

生活習慣病という言葉があるが、それは、機能的なものである。
そして、心情的なもの。

生活習慣病による、体の不調和は、それなりに対処できる。
その理由が解るからである。

しかし、心因性のものならば・・・

不適応という状態に陥るのである。
勿論、人は、それを上手にコントロールして、適応しようとする。

それは、心の強さというものか・・・
そして、それは、人それぞれであるということ。
ある人には、耐えられないが、ある人には、耐えられる。

耐えれない人が、不調和に陥るのである。

それでは、整体の現場で、その不調和の元を、カウンセリング出来るのかといえば、施術自体には、その要素はない。
だが、施術しているうちに、次第に、患者が打ち解けて、言葉を発する。
その言葉に、深い意味がある。

それを、聞き逃さない。

一応まとめると、人が欲求に阻まれると、心の中に、脳の中に、怒り、憎しみ、悲しみ、反感、落胆、絶望、不安などの、不快な感情が湧く。

その、不快な感情が、体を不調和にしている。
身心医学と、整体が、つながる部分である。

その心の平静、脳の部位の平静を保つために・・・

例えば、肩こりや、痛みを楽にすることで、一時的に、冷静な心と、脳の状態に戻ることが出来る。

更に、それを自己理解して、整体の施術により、より、深く心、脳に安心と、平安を与えること。

施術は、治すのではなく、治るように、あるべきだ。

定期的に整体を受けるということで、適応する体の状態を維持する。それで、不調和が改善すれば、それで良いことになる。

整体とは、見事に、治したというものではない。
体と心、脳に対して、一定の安静と、安心を取り戻し、生活しやすくするための、方法である。

全能感を持たない。
医療のように、治す、治るということは、有り得ないことなのだ。

体を整えることにより、生活しやすくする、というのが、整体の目的である。
それ以上でも、以外でもない。

人には、緊張感の強いタイプの人がいる。
その緊張感により、体に不調和を起こす。
それは、性格でもある。

整体は、性格矯正を行なうことはない。また、行なえない。
それは、それぞれの人の気付きである。

しかし、整体の現場で、話を聞くことにより、一種の心理カウンセラーの要素を持つ。

そんなことは、患者は求めていないし、意識する事は無いが、自然発露として、そのように進む。

人に緊張を強いることを、総称して、ストレスという。
それぞれが、色々なストレスをかかえて生きる。
生きることは、ストレスであると、言ってもいいほどだ。

胃潰瘍、十二支潰瘍などは、ストレスによるものも、多い。
現在は、ピロリ菌の存在が広く知られて、ピロリ菌除去により、改善することが、知られている。
しかし、それ以外の場合は、ストレスが大きいのである。

高血圧も、その一つである。
塩分を少な目に摂るとしても・・・
感情的なことで、血圧が上がる。その、問題は何かを、追求すると、何か問題を抱えていたという場合は、多々ある。

心と、脳の、不調和からの、体の不調和は、整体が多く扱うものである。

身心医学では、自律神経の安定を自律神経訓練法などがある。
それは、リラックスすることを、体に覚えさせるものである。

整体は、整体自体に、リラックスの要素が多分にある。
また、リラックスするために、整体を受ける人もいる。

それに関して整体は、万能である。
だからこそ、整体というものが存在する。

機能的、器官の病を治すのではなく、整体も、心、脳を扱うということである。

足裏の刺激をもって、リラックスを与える。
適度な皮膚刺激を持って、リラックスを与える。

すると、病んでいたところが、自然に治癒するという形が、最高の整体である。

posted by 天山 at 06:06| 整体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月12日

もののあわれについて697

おとども見給うて、源氏「あはれなる御消息を、かしこまり聞え給へ」とて、御使ひにも、女房して、かはらけさし出でさせ給ひて、強ひさせ給ふ。
「御返りはいかが」など、聞えにくく思したれど、ことごとしく面白かるべき折りの事ならねば、ただ心をのべて、


背く世の 後めたさは さりがたき 絆をしひて かけな離れそ

などやうにぞあめりかし。
女の装束に、細長添へてかづけ給ふ。御手などのいとめでたきを、院御覧じて、何事もいと恥づかしげなめる辺りに、いはけなくて見え給ふらむこと、いと心苦しう思したり。




源氏も御覧になり、お気の毒な手紙だ。慎んで、お受け申し上げなさい、とおっしゃる。お使いの者にも、女房に命じて、酒盃を差し出し、何杯も勧める。
御返事は、どのようになど、申し上げにくく思いだが、大袈裟に風情を込める場ではないので、ただ思う心を述べて、

紫の上
お捨てになる、世の中がご心配なら、離れられないお方と、無理に離れることはございません。

などと、ある。女の御装束に、細長を添えて、使いの者に、お与えになる。
御筆跡などが、大変見事なものを、院が御覧になり、何事も優れている方の元で、子供っぽく思われていることだろうと、大変、心苦しく思うのである。




今はとて、女御更衣たちなど、おのがじし別れ給ふも、あはれなることなむ多かりける。
内侍のかんの君は、故后の宮のおはしましし、二条の宮に住み給ふ。姫宮の御事をおきては、この御事をなむかへりみがちに、帝も思したりける。「尼になりなむ」と思したれど、「かかるきほひには、慕ふやうに心あわただしく」と、諌め給ひて、やうやう仏の御事など急がせ給ふ。




もうこれまでと、女御更衣たちなどが、それぞれ別れて行くにつけても、悲しいことが多かった。
尚侍の君は、亡き后の宮が住んでいた、二条の宮にお住みになる。姫宮の御事を、除いては、この方のことを、気掛かりに思われる陛下も、思っていた。尼になろうとの、思いであるが、こういう騒ぎの中では、後を追うようで、気ぜわしいと、お止めになり、だんだんと、仏像を創らせることなどを、用意される。

内侍のかんの君、とは、朧月夜のことである。
皆々、院の後を追い、出家する様である。




六条のおとどは、あはれに飽かずのみ思してやみにし御あたりなれば、年頃も忘れがたく、いかならむ折りに対面あらむ。今一度あひ見て、その世のことも聞えまほしくのみ思し渡るを、かたみに世の聞き耳も憚り給ふべき身の程に、いとほしげなりし世の騒ぎなども、思し出でらるれば、よろづにつつみ過ぐし給ひけるを、かうのどやかになり給ひて、世の中を思ひ静まり給ふらむ頃ほひの御有様、いよいよゆかしく心もとなければ、あるまじき事とは思しながら、大方の御とぶらひにことつけて、あはれなる様に常に聞え給ふ。




六条の殿様、源氏は、愛おしく、また不満足のうちに、途絶えてしまったお方のことだから、長年忘れられず、どういう機会に会えるだろう。もう一度、顔を見て、あの頃のことも、話したいと、ひとえに思い続けていらしたが、お互いに、世間の噂を遠慮しなければならない、身分であり、可愛そうにと思った、当時の騒ぎなども、つい心に浮かんで、何事も、心に秘めていらした。こういう自由の身になり、愛情関係は、お捨てになったであろう、この頃のご様子が、いっそう、知りたくなり、けしからぬ事と思っても、特別な意味はないお見舞いにかこつけて、心打つ手紙を、差し上げる。

あはれに飽かずのみ
あはれなる様に
それぞれ、心境を語る、あはれ、である。

朧月夜に対する、源氏の思いである。




若々しかるべき御あはひならねば、御返りも時々につけて聞え交し給ふ。昔よりもこよなくうち具し、整ひはてにたる御気配を見給ふにも、なほ忍び難くて、昔の中納言の君のもとにも、心深きことどもを常に宣ふ。かの人の兄なる和泉の前の守を召しよせて、若々しく、古へにかへりて語らひ給ふ。源氏「人づてならで、物越しに聞え知らすべきことなむある。さりぬべく聞えなびかして、いみじく忍びて参らむ。今はさやうのありきも所せき身の程に、おぼろけならず忍ぶれば、そこにもまた人には漏らし給はじ、と思ふに、かたみに後安くなむ」など、宣ふ。




若いといえるお二方でもないことから、ご返事も、時に応じて、やり取りされる。昔より、ずっと立派になり、円熟したご様子と御覧になるにつけても、矢張り、我慢が出来ず、昔仲を取り持った、中納言の君のところにも、切ない気持ちを、いつも仰せられる。その人の、兄でもある、前の和泉守をお召しになって、若者のように、昔にかえって、頼みこむのである。
源氏は、取次ぎなしで、物越しに申し上げなければならないことがある。うまく、承知していただいて欲しい。こっそりと、お伺いしょう。今は、そのような忍び歩きも、難しい身分で、兎に角、秘密だから、そなたも、他人には、話さないと思うゆえ、お互いに安心だ。などと、おっしゃる。

また源氏の、秘密の逢引である。
まだまだ、源氏の、御歩きは、止まないようだ。


posted by 天山 at 06:19| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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