2014年08月23日

神仏は妄想である。497

初期の大乗仏教徒はいまだ整った教団の組織を確定していなかったし、細密な哲学的論究を好まなかった。むしろ自分らの確固たる信念とたぎりあふれる信仰とを華麗巨大な表現をもって息もつかずに次から次へと表明し、その結果成立したものが大乗経典である。大乗経典は、それ以前に民衆の間で愛好されていた仏教説話に準拠し、あるいは仏伝から取材し、戯曲的構想をとりながら、その奥に深い哲学的意義を寓せしめ、しかも一般民衆の好みに合うように作製された宗教的作品である。
中村 元

上記で、すべて説明している。

華麗巨大表現、民衆の間で愛好されていた仏教説話、宗教的作品・・・

その奥に深い哲学的意義・・・
それは、後付の意味である。

さて、空観である。
一切諸法が、つまり、あらゆる事物が、空、である。
それぞれの固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。

勿論、すでに、原始仏教において、世間は空、であると、説かれていた。
大乗仏教の初期に作られた、般若経では、その思想を受けて、更に、発展させたのである。

当時、説一切有部、せついっさいうぶ、などの小乗諸派が、法の実有を唱えていたのに対し、それを攻撃するために、否定的に響く、「空」という言葉を、般若経は、繰り返し、用いた。

つまり、仏教内での、闘いである。
小乗への、プロテストである。

そこで、われわれは、固定的な「法」というものを、抱いてはならない。
一切諸法は、空である。一切諸法は、他の法に条件づけられて成立しているものであるから、固定的、実体的本性を有しないものであり、「無自性」であるから、本体を持たないものは、「空」であると、いわなければならない。

そして、諸法が「空」であるならば、本来、「空」であるはずの、煩悩などを、断滅することも、真実には、存在しないことである。

かかる理法を体得することが、無上正等覚、むしょうしょうとうがく、つまり、悟りである。
その他に、悟りは無いという。

実践は、かかる空観に基礎づけられたものでなければ、ならない。
菩薩は、無量無数無辺の衆生を済度するが、しかし自分が衆生を済度するのであると思えば、それは真実の菩薩ではない。彼にとっては、救う者も、空であり、救われる者も、空である。
そして、救われて、その境地も、空である。

また、身相、つまり、身体的特徴をもって、仏を見てはならない。あらゆる相は、みな虚妄であり、もろもろの相は相にあらず、と見るなら、如来を見る、という。

かかる如来は、所説の教えが無い。
教えは、筏のようであり、衆生を導くという目的を達したならば、捨てられるものだ。

このように、言うが、それでは、それらの虚言も、「空」であるとは、言わない。

この教えは、360度戻ると、元に戻るということである。
勿論、彼らは、そのようには思わないだろう。

実に、馬鹿馬鹿しい教えである。

救う者、救われる者、そして、その境地も、「空」であるとなれば、すべては、元々、「空」であるから、どうでもいいことになる。

それを知ることが、悟り・・・

それでは、何の教えも受けないことが、悟り、であろう。

元に戻ってみると、元の私が存在していた。
ただ、それだけの話である。

空観からの論理的必然的な結論として、輪廻とニルヴァーナとはそれ自体としてはなんら異なるものではない。
われわれの、現実の日常生活が、そのまま理想的境地として現し出されなければならない。
理想の境地は、われわれの迷いの生存を離れては、存在しない。

「空」の実践の、慈悲行は、現実の人間生活を通して、実現される。

そして、この立場を徹底させると、出家生活を否定して、在家の世俗生活の中に、仏教の理想を実現しようとする。
それが、大乗仏教の、宗教運動である。

そんなことまで、考えに考えて、結果は、慈悲行と言う。
呆れる。

そんなことを考えずとも、慈悲の行いは、実践できるのである。

つまり、小乗に対する、プロテストであるから、そのような、屁理屈をこねたのである。

仏教と、一口に言っても、それは、あまりに広い世界である。
仏教と、一括りに出来るものではない。

もし、そうならば、仏教の教義、教理とは、滅茶苦茶になるだろう。

大乗仏教徒は小乗仏教徒を極力攻撃しているけれども、思想史的現実に即していうならば、仏教の内の種々の教説はいずれもその存在意義を有するものであるといわねばならない。この道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて明瞭に表現した経典が「法華経」である。
中村 元

しかし、その、法華経が、東方基督教によって、刺激を受けて書かれたものとは、中村氏も、知らないようである。
だが、今は、それについては、触れない。

法華経には、声聞乗、仏陀の教えを聞いて忠実に実践する、縁覚乗、一人で悟りを開く実践、菩薩乗、自利利他を目指す大乗の実践、と、三つの三乗というものが、説かれる。

この三乗は、別々の教えといわれていたが、それは、いずれも、仏が衆生を導くための、方便として、説いたものであり、真実には、一乗法あるのみだという。

本当に、御苦労なことである。

そこから、壮大な妄想が拡がってくるのが、大乗の嫌なところである。



posted by 天山 at 06:03| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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