2014年08月22日

神仏は妄想である。496

大乗仏教に至り、強調された「般若経」の「空」の思想を、理論的に基礎付けたのは、ナーガールジュナ、竜樹である。

彼は、般若経の思想を継承しつつ、大乗仏教に哲学的基礎を与え、その思想を確立した。

大乗の信者たちが、蔑視した、小乗仏教は、それでは、どのように堕落したのか。
まず、彼らは、歴史的人物としての、仏陀の直接の教示に近い、経典を伝え、伝統的な教理を、ほぼ忠実に保存していた。

更に、彼らは、国王、藩侯、富豪などの政治的、経済的援助を受けて、広大な荘園を持ち、その社会的基盤の上に、存立していた。

つまり、莫大な財産を持ち、社会的勢力を持ち、ひとり自ら身を高く、そして、それを清いとしていた。
その態度は、独善的、傲慢不遜だった。

そして、人里離れた地域にある、巨大な僧院の内部に居住し、静かに瞑想し、座禅を修め、煩瑣な教理研究に、従事していた。

これが、仏陀が、伝えた教えだろうか・・・
遊行して、教えを伝えた仏陀の後を継ぐ者たちだろうか。

要するに、仏陀の教えを、奉持して、それで納得し、他のことには、我関せずの姿勢である。
これが、堕落ではないのか・・・

堕落である。
徹底した、堕落の極みといえる。

当然、大乗が起こる理由が解るのである。

宗教というものに、付きまとう、小乗の人々は、象徴である。
現在の日本仏教も、愛好家の域を出ないのである。

宗教教団とは、確実に、堕落するものである。

或いは、商売と化すのである。

それでは、大乗の人たちは、何をしたのか・・・
全く新たな経典を、創作したのである。

そして、そこに現れる仏陀は、歴史的人物というより、理想的な存在として、描かれたのである。

創作・・・
作られたものである。
人間の頭で、捏ね繰り回して、創り上げたもの。

そして、大乗の人たちは、荘園などを所有しない、というより、持っていないのである。
大衆から湧き上がった、運動とはいうが・・・

更に、社会的権力者に近づかないという。阿諛することを、嫌った。
その信仰を、純粋にして、清きことを、誇りにした。

とはいえ、その後は、見ての通りだ。

日本仏教は、大乗を継いでいるが・・・
その愛好家たち、そして、新興宗教に成り果てた、仏教系の教団・・・
皆々、堕落している。

中には、政党まで持つ集団も存在すると言う、仰天である。

大きな伽藍を建てて、意気揚々としている、愚かさである。

そして、やることは、葬式の読経程度である。
或いは、信者に金を集めさせて、教団を大きく、大きくしようとする。
更には、信徒の数で、政治に関わる。

それぞれが、本来の仏教だと、言うのであるから、終わっている。
本来の仏教は、もう存在しないのである。

あれは、仏陀一人で、終わったものである。

極めて言えば、仏陀という存在は、実に大きな罪を犯した。
その後を継ぐ者たちが、妄想の教えを広げて、更には、堕落の一途である。

仏陀に、罪あり。

ということで、ナーガールージュナ、竜樹の思想を俯瞰する事にする。

「空」という、とてつもない、妄想の思想である。
更に、その言葉遊びには、脱帽する。

その前に、少し・・・
大乗の信者から出たものは、無数の諸仏、諸神を創り上げたことで、それらを拝むという形も創り上げたということだ。

そして、それらの像を創り上げたことである。
特に、中央インドのマトゥラー市と、西北インドの、ガンダーラ地方である。
前者は、アショーカ王以来のインド国粋美術、後者は、ギリシャ美術の影響の強いものである。

仏陀は、何一つも、拝むものは、示さなかった。
だが、大乗の人々は、それらを創作した。
更に、拝むという・・・

イスラムから、偶像礼拝と言われても、詮無いことだ。
確かに、偶像崇拝である。
芸術として鑑みれば、価値がある。

だが、拝むものではない。
更に、すべて、想像の産物である。

大乗の最初の考え方は、皆、納得するものだろう。
利他行、つまり、慈悲の精神に立ち、生きとし生けるもの、衆生を、すべての苦から救うという、願いである。

自分が、彼岸の世界に達する前に、また他人を救わなければならないという、利他の思想である。
これに、多くの人が、迷わされた。

そして、そういう人を、菩薩と呼ぶ。

後々で、最大の妄想の法華経に出てくる、地湧の菩薩である。

もう一つは、現世利益である。
仏、菩薩を信仰すれば・・・
多くの富、幸福が得られ、無病息災である、云々・・・

結局は、そこか、という、妄想である。



posted by 天山 at 05:15| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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