2014年08月21日

神仏は妄想である。495

永遠に救われざるものの裡における奇蹟について。
信の世界に我らを導入せしむる大きな要因は、永遠に救われぬという罪の意識であることは云うまでもなかろう。罪とはむろん・・犯罪に限らず、親鸞の言葉に従えば「煩悩具足の凡夫」という自覚である。あらゆる欲望と執念の深さ、熾烈なエゴイズム、云わば人間なるが故に負わされた宿業の自覚と云ってもいい。この宿業を回避した彼岸ではなく、宿業そのものの裡に即菩提を念ずるところに大乗の真諦があるのだが、しかしここにもまた一つの陥落は伴う。菩提を得んがために、その予想において、罪の意識を殊更に虚構し空想化することがないであろうか。
亀井

虚構し空想化することが・・・
大いにある。
すでに、大乗仏教が、それである。

日本には、その大乗仏教が、大陸を通して、入って来た。
大乗は、それ以前の、上座部仏教に対抗して、作られた、仏教である。

大乗の人は、上座部の人を、小乗という。
それは、蔑視である。

一人、悟りに向うのではなく、大衆を救うという・・・

これ以上の亀井氏の、信仰について、は、もう省略する。
結果的に、大乗仏教から、更に、鎌倉仏教といわれる、新仏教が、多数、生まれた。
日本的仏教である。

確かにそれは、日本の思想史の上では、無視することが出来ないものだ。
しかし、大乗から発する、仏教を基本にして、始まった、作り物の仏教である。

天台、真言、そして、鎌倉仏教の、様々な禅宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、その他・・・
中国仏教の影響が、あまりに大きいものである。

現在は、中国では、それらの仏教は、大半が消滅した。

大乗仏教は、西暦紀元の間近き頃、一つの宗教革命ともいえる運動が、インドにて、起こったものである。

仏陀滅後、500年を経ている。

彼らは、それ以前の仏教を、真理に至る小さな乗り物と、蔑視した。そして、自らを、大きな乗り物として、大乗と称した。

キリスト教が、イエスの宗教ではなく、イエスにまつわる宗教であると同じく、その仏教も、仏陀の宗教ではなく、仏陀にまつわる仏教として、創作されたのである。

つまり、人間の頭で、捏ね繰り回した、教えである。

その批判と改革は、仏教の根本的な真理観である、「空」を巡る闘いでもある。

小乗は、空を虚無的なものに解し、心身の無化・帰滅をもって、理想とした。そして、現実の営みに、傍観的態度をとり、無感動、無感覚となっていった。
つまり、固着してしまった、仏教であり、出家者にのみ言える、仏教の教えとなっていた様子である。

大乗教徒たちは、「空」に対する、小乗教徒の考え方、その態度を、批判し、プロテストして、改革を行なった。

最初に行なわれたのが、「空」の原理的解明である。

それでは、空というものについて、少し説明する。

その観念は、諸々の存在が、相関係し合い、変動しているという、事実に立脚する。
簡単に言えば、縁起である。

縁起とは、いかなる存在も、独立・固定の実体、つまり我を、有しないということである。
それは、無我と呼ばれる。
ここから、「空」という観念が、生まれた。

存在するものの、実相、真相、あるいは、それを支えている真理は、「空」であると、説かれた。
だが、しかし、「無」ということではない。
「空」とは、存在するものは、滅び、無に帰するものとして、その本質は、「無」であるとは、言うのではない。
そのような、「無」の考え方は、一種の執われた固定観、我見、という。

「空」とは、有にしろ、無にしろ、一切の固定観念の否定を意味する。
非有非無、不生、不滅と称される。

永遠に実在している、有・生ということを考えると共に、実在しない、無・滅ということを考えの超えたところに、「空」ということが言われた。

小乗教徒たちは、言葉の上では、それを知っていた。だが、有無・生滅などに冠された、非、不が、相対する固定観の突破、超越を意味していることに、十分な理解がいかず、非、不を、固定化し、結局は、「空」を、実態的な「無」と変わらないものに、落とし込んだ。

小乗教徒の一部、説一切有部というグループは、実体的な有を立てたのと同領域・同次元の、単なる、裏返しに過ぎないものとなった。

大乗教徒たちは、それを正すべく、「空」の原理的解明に努めたという。
その成果が、経典となって出たものが、「般若経」である。
最も古いものは、西暦50年頃に出来上がったといわれる。

いずれ、この大乗教徒の、「空」という思想が、神と同じように扱われてくる。
これは、思想として、学ぶに足るものだが・・・

そこから、何の信仰が、生まれるのか、解らないのである。
仏陀が、説いた、縁起の法則が、神のように、祭り上げられる。

そこで、仏陀を崇拝の対象にして、拝む。祈る。
これは、拝む、祈るものではない。

思想である。
これから、漸く、日本の仏教について、書くことが出来るが・・・

仏教と言っても、それを一つにするなどということは、出来ない。
簡単に言えば、すべての仏教というものを、一つにすると、それは、滅茶苦茶になる。

仏陀崇拝のみならず、経典崇拝までに至る仏教というもの。
何故、仏教が、宗教に成り得ているのか。

極楽浄土・・・
そんな世界は無いのだが・・・
結局、仏教は、堕落し続けて、現在に至るとだけ、言う。



posted by 天山 at 05:38| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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