2014年08月20日

神仏は妄想である。494

深い信仰とは、何か。
深い迷いである。
或いは、深い自己消失である。

もし、深い信仰という境地があるなら・・・
それは、心身ともに、健全な人にあるのだろう。

精神を病む人が、深い信仰を得るということは、深い、妄想の中に陥るということである。

宗教は、言葉遊びを得意とする。
だから、深い信仰も、言葉遊びに堕落するのである。

亀井氏は、イエス・キリストの磔による死から、結果的に、その死を免れなかった、イエスの絶望と、奇跡が起きなかったことに対して、
かかる「奇蹟」に比するならば、癪者を癒し石を変じてパンとなすごとき奇蹟は何ものでもない。少なくとも神における第一義の属性ではない。神のもたらす真の「奇蹟」はつねに凄惨である。最も深く信じ、最も美しい心をもったものほど殉教者として過酷な死に遭わねばならぬ。信仰ふかきものが天国に往き、浅きものが地獄へ堕ちるとは限らぬ。むしろその反対なのだ。痛恨の涙も彼をよみがえらす術をしらない。
何故そうなのか。誰も知らない。では、人間は神に翻弄されているのか。昨日まではそうであった、だが明日からは人間はかかる神なくして己の尊厳をかち得るだろうと或る者は云うかもしれない。結果は同じである。「明日」という未分の誘いによって彼は翻弄されるだろう。それが当然なのだ。我ら何処より来り何処へ行くかを誰も知らない。
と、言う。

多いなる、迷いである。

信仰の深みに至れば、至るほど、迷いは、深く、切なくなる。
その、苦悩に耐えられるのか・・・

信仰とは、何か。
神仏は妄想である、という、その根拠は、ここにある。

それは、神仏ではなく、我が心の内に入り込む行為なのである。
対象・・・
それは、我である。

神仏は、人の心に住むもの・・・
誰も、神の子であり、仏性を持つ者である。
と、ウソの上塗りをする。

心理学を持ち出す程のことはない。
宗教の神秘思想とは、妄想の何物でもない。

だが、そこに、人間の存在の尊厳が隠されている。
それは、命への畏敬である。

やまと言葉では、いのち、おほいなる、いのち、である。
その、いのち、に対する、畏敬である。

いのち、そのものが、神であり、仏であるという、畏れ賢こみ、である。
だが、これも、単なる言葉遊びに堕落する。
宗教を通ると、堕落するのである。

人間の発した最も悲痛な言葉は、フョードル・カラマーゾフの次の叫びに要約されるだろう。
「もう一ぺん最後にはっきり言ってくれ。神はあるのかないのか、これが最後だ」
亀井

有るわけがない。
有るというならば、それは、神ではなく、霊である。

私は、グノーシス派ではない。
だが、彼らが言う、「私は神だ」と言って、出てくるような霊に、ロクなものはない、と言うのは、本当である。

人間の存続する限りこの叫びは永久に絶えまい。何ものかに向って発せられた怒号だ。・・・
惨傷のなかに憤怒と悲哀とを交えた声のごとく聞える。情欲や物欲や背徳や、この世の地獄にまみれた煩悩具足の凡夫が、かくも神のために心を労するとは。彼は信仰の徒ではない。ただ人生に耐えたのだ。
亀井

フョードルの問いは、無始去来の人間の哀音である。それは信を生み、また不信を生みつつ、煩悩具足の凡夫のまま犠牲者となるのである。―――永遠に救われざるものの裡における奇蹟。
亀井

そして、亀井は続けて、
今まで述べてきたところは私の独創でもなければ発見でもない。私はこれらすべての示唆を親鸞によって与えられたのである。親鸞よりうけた最も重大な教訓は一はこうだ。
―――神仏を思うとき我らは直ちに恩寵や救いについて考えがちだ。また同様に奇蹟を希む。しかしそれは間違っている。神仏を思うときは直ちに地獄を思え。
―――われに救いありと思ったときが即ち御身の堕落したときである。人間の救いは保障出来ぬという課題を解くように、唯その方向に進むがいい。それは御身の強大を意味するものではなく、そうすることが仏の至上命令だからである。・・・
亀井

亀井氏は、親鸞をそのように、解釈した。

更に、それを深めた。
そして、絶望しつつ・・・
仏に手を合わせた。

神仏による、救いというものは、皆無である。
我が我を、救うのであり、それだから、成り立つのが、宗教なのである。

信仰に絶望しないような、信仰を持つ人は、アホなのである。
アホは、死んでも、アホだから・・・

―――かくしてはじめて神仏の悲心はあらわれるというのか。浄土は近しと云えるのか。誰がそれを知ろう。彼方より来るものに一切を委ねるがいい。では彼方より来るものは必定であるのか。誰がそれを知ろう。疑念あらば疑念の底へ行け。信ありと思わば、また不信のあることも御身のこととして担え。神仏の実在を証明するものは、生涯を賭けて御身が実証した人生苦自体である。無始劫来つきることはない。最低の地獄を継いで崩れざる人柱たること、これを捨身という。かくて神仏の立ちあらわれるのは必定であるのか。永遠の徒労は永遠の生命を得る。
―――人生に耐えよ。
亀井

親鸞により、教えられたという通り・・・
自虐的である。

ただ、亀井氏の、論調は、聞くに値する。

人生に耐えられないがために、神仏に逃げる輩・・・
そして、妄想の、救いに身を委ねるという、愚昧は、尽きないのである。



posted by 天山 at 06:01| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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