2014年08月19日

神仏は妄想である。493

人間の生涯には、これが解決であり悟りであると思いこむ刹那は累々としてあるであろう。人は悦びつつ自得の世界を他に向って説くであろう。だがそれもまた微かな幻想にすぎないと知ることは苦痛だ。
亀井

宗教に入信する者は、そのようである。
他に向って説く・・・
宗教の中には、進んで、そのように布教あるいは、折伏せよという集団もある。

それは、大きなお世話なのであるが、本人は、それを考えることは、無い。
上から、言われたとおりに、実行する。
つまり、兵隊と同じように、思考停止にされるのだ。

それもまた微かな幻想・・・
自分の幻想を押し付けることは、愚昧である。
自分だけのための、それは方法であり、他に、説く必要は無い。

人間の悲惨を己の外部にあるものとして眺め、戒律や道徳をもって責める。そして必ず何らかの意味で善人と悪人とを区別判定しなければやまない。それが求道の行から得た当然の権利であり分別であるかのように振舞う。・・・・
こうしてかの無神論とは正反対の面から人間の悲惨をもてあそぶ。己は救われたと思いこむ幻想が傲慢な所作を生むのだ。凡そ古典を求むるものの先づ陥る咎はこれなのである。主義の如何に拘わらず指導者―――先駆者意識もまた然り。
亀井

簡単に言えば、商売と何ら変わらないのである。
信者を増やすことは、上がりを多くする事。

更に、組織を作り、人の数を増やす。
全く、信じられない、所業である。

そこには、救われたと思い込む、傲慢不遜がある。
そして、選民意識である。
誰も、そのような権利は無い。

日本は、信教の自由が認められている国である。
何を信仰するかは、個人の自由に委ねられる。

更に、その自由は、布教の自由をも与えている。
だが、それにより、救われたと思い込む者が、他者を巻き込む権利は無いのである。

それこそ、無神論とは正反対の面から、人間の悲惨をもてあそぶ、のである。

よく考えてみると、すべては不安定なるが故の小心から発しているようだ。一刻も早く悟りや幸福や解決がほしいのである。出来るだけ安全な道をとおって、しかも他人の尊敬をかちえたいものは、聖典や古典を語るがいい。救信の途上において虚栄に見舞われないものは稀であろう。聖典や古典の権威にふれて、小心な人間が抱く幻想ほど手に負えぬものはない。無神論とは別の意味で、神を己が幻想とすることはつねにありうるものだ。
亀井

すべて、人間がする事である。
神仏は、何も行なわない。
だから、人を通して、神仏が働く・・・
それは、考え過ぎであり、そう教えられるからだ。

人間の悲惨・・・
これを、どのように、受け止めるのか。
誰もが、悲惨に目に遭いたくないだろうが・・・
実は、生まれて、生きることが、すでに、悲惨なのである。
それ以上に、信仰を持って、悲惨になる必要は無い。

かの大不安定にまず我が身を没することが重大であろうに。何故人間は貧相な「解釈」や「救い」にすがりつくのか。しかく悲惨な海に漂いながら、神の乗り給う船端に手をさしかけたとき、その手をひどく打ち払って海の深みに我らを沈め給う神の「惨虐」を知ること。
亀井

亀井氏は、無神論ではないが・・・
信仰の深さについてを、語るのである。

もし、信仰が許されるならば、それは、哲学し続ける精神のことであろうと、思う。
そのように、言うしかないのである。

その教義、教理を学び、人とは違うと、思い込む愚昧なる、信仰の徒である。

それらは、人間の頭が、捻くり出したものである。
解釈なるものも、然り。

神仏は妄想であるが、妄想でないものが、唯一ある。
それは、我の存在である。
その、私の存在を、とことん突き詰めて行く行為・・・
それは、信仰と同じほどに意味がある。

信仰と同じほど、とは・・・

信を求めることによって、神に近づいたと感ずるよりも、いかに神から遠く離れた存在であるかを絶えず知るように努めること、これが人間の当然の心構えであろう。
亀井

ここに、亀井氏の、信仰についての、面目がある。
だが、それは、実に誤解されやすいのである。

これは、どの宗教、神仏にも、当て嵌まるもので、それこそ、信仰の姿と思い込む。
神仏から、遠く離れている我という意識は、我が内からの、欲求であり、他によって、教えられるものではない。

だが、多くの宗教は、それを持って、信者を兵隊にする。

罪深い者・・・煩悩の塊・・・救いには、遠い存在・・・
人間を、宗教、いや、宗教家は、裁くのである。

救信の当初において我々は、選ばれた人の悟りの世界に憧れ、その教えをもってわが身を守ろうとする。そして追放されたものから自分を区別して考えがちだ。けれども是は救信において誰しも一度は陥る最も大きな錯誤なのである。
亀井

人間の思慮によって定められた善悪是非の、いかに不安定なものにすぎぬかを知ろうとしない。
亀井

要するに、アホであるということだ。




posted by 天山 at 05:32| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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