2014年07月26日

神仏は妄想である。492

今や一原理だけが問題なのではなく、人間の生死にかかわる抜き難い物欲は、何によって解脱へ導かれるかという永遠の課題にまでひろがってくる。近代無神論の夢みたものは、人間の唯物的自力―――政治経済力―――による転換であった。
亀井勝一郎

この、一原理は、唯物論も然り、唯一神も然り、そして、仏というものも、然りである。

ただ、亀井は、続けて、
この転換における凄惨な流血と苛烈な施政は周知のところであろう。それは理想への過程として弁護されてもきた。人は累々、理想は高く遠いという理由のもとに、現実の曲折を弁解しがちであるが、ここにもまた疑問はある。理想とは果たして遠いが故に今の刹那には無にすぎないものであるか。―――否、と私は答えざるをえない。今の刹那に窮極の姿のままで臨むこと自体が理想というものの本質ではないか。「人はパンのみにて生くるものに非ず」に実現しうべきものなのだ。
と、言う。

この転換における、凄惨な流血と苛烈な施政・・・
だが、それは、宗教の成立過程にも、付きまとったものである。

例えば、正統と異端などは、よい例である。
更に、他宗教との闘いも然り。

人間は、一原理を奉じると、必ず、非寛容で排他的になり、更に、暴力的になるのである。
その一端を、宗教も、併せ持つ。

唯物論―――この戦闘的無神論と云わるるものは、一歩一歩「物質」を軸として改変整備を志す。即ちそれを「客観的」という。むろん理想はつねに語られる。正に一の幻影として。だが現実は、ただ強権に由る物欲の抑制である。何事であれ窮極の心をもって臨むものは死をもって罰せられる。
亀井

それを、亀井は、人間侮蔑の上に立てられた、原理と言う。
それは、
我らの深い煩悩にどんな懺悔心を起こさせるか。懺悔は心奥からの自発故に散華である。
人間―――この巧妙に粉飾された煩悩のかたまりの前に為すべきことではない。人間の物質的関係の転換が、一切の基本であるという原理からは、おそらく政治的ポーズのみが生まれるにすぎないだろう。
亀井

ところが・・・
その宗教も、政治に利用された。
取り込まれたのである。

キリスト教の成立が、その最たるものである。
そして、ユダヤ教も、イスラム教も然り。
宗教と政治が結託してしまったのである。

実に、怖ろしいことを、言わなければ、ならない。
まず、宗教は、為政者に受け入れられ、そして、民衆に行き渡る。

コンスタンチヌス帝が、キリスト教に改宗してから、ローマ人は、続々と流行のように、キリスト教徒になった。

唯物主義は、極めて、宗教に近いのである。
いや、それは、キリスト教から生まれたものである。
根は、同じなのだ。

だから、唯物論は、宗教の心理に深い造詣を持っている。

だが、唯物論は、一過性のものとなった。
その時代は去ったのである。
勿論、個々人の中に、それを保持している者は、いるだろうが・・・

人生の未熟な時期に、唯物論者だったものが、年を経るにつれ、唯物論から次第に、遠ざかるのである。
それは、我が身の、死を見るからである。

そして、その死を扱うもの・・・それが、宗教となる。
それも、実に、愚かしいことであるが・・・

宗教は、死を扱うものではない。
生き方を扱うものである。
死は、宗教とは何の関わりもないのである。
しかし、宗教家は、大手を振って、死後の世界を語るという、愚劣である。

講談師、見てきたようなウソを言い・・・
それと、同じ。
天国も、極楽も知らない。
そして、本人も、そんな場所に行くのか、行かないのか、解らない。
それでも、救いという言葉を掲げて・・・宗教屋である。

だが唯一つ、今もなお心に疼くことは、人間の驚くべき不安定である。何という悲哀だろう。それは不安定に対する驚きというような、率直な姿であらわれない。我も人も、いかに世間体を繕うか、自己弁解するか、そういう痛ましい努力であらわれる。仮面の下に隠された苦渋を懸命に耐えるとはいかなる義務であるのか。思想的苦悩、乃至は動揺といわるるもので、純粋に内面的であると同じ程度で、狡猾に外面的でないものはない。いかなる理論、教養、思潮等をもって巧妙に装うとも、人間の薄弱さは蔽うべくもなかった。
亀井

つまり、人間は、弱い者である。
強く見せれば見せるほどに、弱い者なのである。

結局、年老いて、行き着いた先が、宗教を奉ずる。
信仰を得て、安心立命を得る。

ところが・・・
宗教の何処に、そんな力があるのか。
それは、自己暗示である。

神や仏に、そのような力は無い。
人間が、勝手に、想像し、妄想し、幻想するだけのことである。

それで、安心して、死んだ・・・
それで、いいこともある。

だが、人間は、よくよく考えることである。
考えを止めた時、人間は、死ぬ。
だから、死んで、生きている人も大勢いるのだ。
信仰に生きるという人は、実は、死んでいる人が多いのである。



posted by 天山 at 05:47| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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