2014年07月25日

神仏は妄想である。491

キリスト教の成り立ちについて、書き続けてきた。
宗教の成り立ちは、様々な宗教にいえる。

勿論、伝統の浅い宗教もあり、今も、教義を作り続けている。
そして、それは、すべて人間の考えたものであり、妄想である。

それが、哲学としてあるならば・・・
まだ、許すことが出来るが・・・
宗教は、信じることを、基底とする。
それが、怖ろしいことだ。

個人的に、何を信じようが問題はない。しかし、その自分の信じるものを、他人に強制したり、あるいは、その価値観で、人を裁くという、傲慢不遜は、如何ともし難いのである。

迷いに導く、宗教の信仰である。

そして、信仰とは、迷いに他ならない。
行き先に迷うから、信じるのである。
それが、事実だから、真実だから、信じるのではない。
すべて、それは、主観である。

宗教も、未熟で、発展段階であることを、知る人は、少ない。
更に、信じる行為、信仰についても、深く思慮する人は少ないのである。

信仰は、迷いである。
この言葉は、私以前に、亀井勝一郎により、教えられた。
その著作により、知らされた。

信仰そのものが迷いの所作である。つねに危機の上にのみそれは彷徨うという意味だ。故に「私は信仰を得た」と云うものも、「私は不信の徒である」と明言するものも、いづれも傲慢で粗暴な自己欺瞞におちいっているのである。むしろ信と不信と、そのあわいの戦慄に人間の受難があるのではなかろうか。而して後、彼方よりおのずから来るものに一切を委ぬべきなのだろう。むろん、何びともその時期を予測しえない。神の恩寵は推量しえない。
信仰について 亀井勝一郎 現代語は私

ただ、亀井は、信仰について全面的に肯定している。

彼方より、自ずから来るものに、一切を委ねる・・・
ここに、亀井の優しさがある。
私は、来ないと、言う。

来たと、思う心は、妄想である。

更に、言う。
次元も質も違う世界から、一体、どうして、人間の世界にコンタクトするのか・・・
勿論、秘術なるものがあり、それにより、神仏と交信するという、奇妙な、化け物のような人もいるが・・・

しかし、下記の言葉、
宗教的苦痛は、一つには現実的艱難の表現であるととともに、また一つには現実的艱難に対する抗弁である。宗教は抑圧された生き物の嘆息であり、またそれが魂なき状態の心情であるとひとくし、無情の感情である。即ちそれは民衆のアヘンである。
この、唯物論の主張を、ただ私は、受け入れるのではない。

また、
民衆の幻想的幸福としての宗教を止揚することは彼らの真実の幸福を要求することである。民衆が自己の状態について懐く幻想を放棄しようとする要求は、幻想というものを必要とするような状態を放棄しようとする欲求である。されば宗教の批判は辿れば涙の谷の批判であり、そしてこの涙の谷の聖影が宗教なのである。
という、お話も、実に宗教を見抜いたものであると思うが、組しない。

それは、上記も、辿れば、宗教と同じ位置に付くからである。
その思想を、強制すれば、共産主義のような、独裁的な手法になる。

如何なる独裁も、私は、容認しない。

だから、宗教の独裁も、容認しないのである。

上記は、思想と呼ばれる。しかし、極めて宗教的思想となる。
そして、その喧伝は、宗教と、変わらなくなる。

神仏というものが、存在するならば、それは、百人百様の神仏が存在する。
思想というものも、そうである。

如何なる、宗教も、思想も、それにより、人間を独裁的に扱うことは、罪である。
罪とは、そういうものである。

絶対的権威を創り上げる人間は、何故、それを欲するのか・・・
それは、為政者のため、あるいは、利益を強奪する者の手である。

人間に与えられている自由は、何人も、それを犯してはいけないのである。
それを、犯すことを、罪というのである。

亀井も、
それは一つの幻想の放棄を教えつつ、別の幻想をもたらした・・・
と、言う。

その通りである。

この唯物論に対して、亀井は、
人間の唯物的自力によって物質を運用し、パンを保障すると断言したとき、抑圧された生き物の嘆息は消滅すると信じられるか。―――否、と私は答えざるを得ない。若し食物によってのみ生きうるものならば、どんな政治形態が来ようと、また自己の精神を鎖につながれ盲目にされても、人間は屈従しているであろう。事実人間をかようなものとして考えているものがある。また悲しむべきことには、我らにはそういう弱さもある。ソ連は全人民にパンを約束したが、それを確実に得るものは一党派の絶対的服従に限る。一理論の裡に人間を限定し、刑罰をもって抑制し、残る後与えられたパンが果たして最上の美味であるか。それでも飢えるよりはましであるか。
と、なる。

多くのものが貧しいとき、己ひとり私欲を貪るものは罰せられねばならぬだろう。だが物質的救済が一切の根本原理であるとみなすのもまた罰せられねばならぬだろう。人間は果たしてかように侮蔑された存在であるか。
亀井

人間の精神は、自由である。
宗教と、唯物主義が、実に、近い位置にあることを、私は言う。


posted by 天山 at 06:08| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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