2014年07月24日

神仏は妄想である。490

もし、予期していた終末が訪れなかったら、どうなるのだろうか? もし、イエスが「この世代」にその通りになると考えていた、黙示思想的シナリオが、いくら待っても実現しなかったなら、どうなるのだろうか? もし、自分が生きているうちに、キリストが再来すると信じていたパウロが死んでしまって、彼の予想が完全に的外れだったことが証明されたら?
もし、死者がいつまでたっても復活せず、「すぐに」その時が到来すると広く信じられていた信仰が、嘲笑されるような事態になったら?
アーマン

今も、キリスト教新興宗教の一部が、預言を繰り返している。
この世が終わる・・・
だが、何度も、その時期を明言したが・・・
終わらない。

それでも、その信者たちは、信じているという・・・
呆れる。
既存のキリスト教を、徹底的に非難しつつ、伝道を続けている。
呆れる。

アーマン氏は、
新約聖書のなかでも最も新しい「ペトロの手紙二」は、まさにこの問題に取り組んでいるという。

この書簡の中で、作者は、神がすべてはすぐに起こるだろうと言うとき、彼は、人間の暦ではなく、神の暦にのっとって、そう言うのだと、主張する。

主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日であることを、誰しもが心に留めておかなければならないのだ、という。
呆れる。

この論理によれば、もし終末が、来週の火曜日に訪れるなら、それは、四千年後の火曜日かもしれないということになる。
アーマン

この世の終わりが来ないなら、もともとイエスやその弟子が抱いていた将来への展望を信じ続けようとする人々は、そうした展望が、根本的に誤りであるかもしれないという事実に、真剣に向き合わざるを得ない。もちろん、敬虔な信者は、イエスが間違っていたなどと、口が裂けても言わないだろう。
アーマン

と言うわけで、再解釈を試みるのである。
勿論、それは、妄想である。
幻想とも、言う。

そうした、プロセスの中で、本来のメッセージは、より抽象的で、難解で、反証しずらい見解へと変容する。
特に、将来、死者が、肉体を伴って復活し、この地上で、善人が報われ、悪人が罰せられるという、教えは、天国と地獄という、観念に、すりかえられた。

つまり、審判が下るのは、この世の終わりではなく、死んだときだという、ことになった。

キリスト教思想家は、終末が、待てど暮らせど来ないので、この時間軸を再定義し、軸を回転させ、水平的二元論を垂直的二元論にすることで、「終わり」を垂直線上に置き換えた。そうすることで、この世とあの世という、二つの領域が、今の時代とこれから訪れる時代という、二つの時代に取って代わった。もはや、肉体的復活は、議論されることも、信じられることもなくなった。いまや、重要なのは、この世における苦しみと、天国における歓喜なのだ。
アーマン

結果、時代が下ると共に、肉体の復活という、黙示思想的観念が、不滅の魂という、教義へと、変容したのである。

そして、天国と地獄の、信仰である。

勿論、このような、信仰は、イエスにも、パウロにも、無いものである。
更に、神の国が、この世に、顕現することも、決して無いことを、悟った・・・?

この信仰は、キリスト教の標準的な教えとなり、これからも、続くだろう。

実に、有意義な、アーマン氏の、研究である。

私たちが伝統的なキリスト教と考えているものは、天から降ってきたのではなく、イエスの宣教活動直後から、著しい発展を遂げた。それはまた、単にイエスの教えから直接発生したのではない。多くの点で、後にキリスト教と呼ばれるようになった宗教は、イエスの教えから大きく乖離することで成立した。批評的な歴史学者が、ずっと前から認めているように、キリスト教は、イエスの宗教ではなく、イエスについての宗教なのだ。
アーマン

キリスト教とは、
西洋文明の歴史の最も偉大な発明であったことに異論の余地はないだろう。
アーマン

それに加えると、白人主義と共に、である。
西洋とは、バイキングに乗っ取られた地域である。
その野蛮な、白人たちの思想・・・

白人主義が、キリスト教と相俟って、実に、野蛮な宗教が、出来てしまった。
戦争を好む宗教・・・キリスト教である。

十字軍の遠征にて、イスラムを攻撃したのを始め、次ぎは、キリスト教の中での、宗教戦争に明け暮れた西洋の歴史。
そして、世界へ躍り出た時は、他民族の虐殺・・・

キリスト教以外は、野蛮であるとの、他民族、他宗教への、攻撃である。
自らの、野蛮を隠すために、他を野蛮と見做す、カラクリ。

そして、ユダヤ、キリスト、イスラム教の、三つ巴の闘い。
今も、続く。

宗教の功罪は、語っても、語りきれないのである。

現在の地球環境破壊も、彼らの、神が与えたものとして、自然破壊をし尽くした結果である。
自然に対する傲慢不遜は、彼らの神の教えである。
つまり、その神は、魔神である。
神に対立するものとして、悪魔の存在を作り出したのも、元は、同じ根である。
つまり、神と悪魔は、一緒だったということだ。

自然と、共生、共感する、何心も持たない。
日本の伝統は、自然との共生、共感を最大事として、行為してきた。
仏教も、基本は、慈悲の行為である。
日本仏教愛好家たちの仏教ではない。
仏陀の、教えである。

次に、再度、仏教に行く。
その妄想全開の様、得と、見定めることにする。



posted by 天山 at 05:46| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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