2014年07月23日

神仏は妄想である。489

イエスに始まる最初期のキリスト教徒は、天国や地獄が、死後に魂が行く場所だとは考えていなかった。つまり、このような天国や地獄の観念も、後世の産物なのである。
アーマン

日本にても、天国、あるいは、極楽の考え方は、皆無だった。
古代日本人は、自然に隠れると考えた。

また、山に帰る。あるいは、海の彼方に行く。
蓬莱山に行くなどとは、道教の影響である。
更に、極楽、地獄の観念も、仏教による。

多くの学者は、イエスやその信者が、ユダヤの黙示思想家だったと考えている。
アーマン

黙示思想は、神義論、もしくは、神の正義、の問題に取り組む論法として、イエスが生まれる、一世紀以前に生まれたものである。
更に、神義論とは、17世紀の哲学者、ライプニッツの造語であり、当時は存在しなかった。

神義論は、この世に苦痛や苦悩が蔓延しているのに、どうやって神が正しいと証明すればいいのか、という問題を孕んでいた。人々がこれほど苦しんでいるのに、どうして、善意と愛に満ちた神の意志が働いているなどと、信じられるだろうか?
アーマン

これは、現在にも、言えることだ。
唯一絶対の神という存在があれば、それらの問題をどう、解くのか・・・
勿論、宗教家は、何とでも言うから、何とでも、言うのである。

全く解決されていない。

黙示思想の誕生に先立つ数世紀前に、イスラエルには、神が自分に背いた自分の民を罰しているからこそ、神の民だけが、かような苦渋を強いられているのだと考える思想家がいた。この思想は、時に預言的見解と呼ばれる。なぜなら、旧約聖書のどのページを開いても、預言者の同様の見解が記されているからだ。
アーマン

古代ユダヤ人の、実に傲慢な、思想である。
神の民・・・
様々な民族が存在しても、イスラエルの民は・・・
しかし、何一つ、解決していないのである。

古代イスラエル人は、旧約聖書のヨブ記に書かれる、黙示思想に注目した。

黙示思想的世界観は、異なる角度から、この問題に取り組んでいる。黙示思想家は、苦しみが一時的な状態だと考えていた。ある神秘的な理由から、神は、この世界を支配することを止め、世界に多大な害悪をもたらす邪悪な宇宙的勢力にさせるがままにしている。しかしまもなく、神は歴史に介入し、あらゆる悪を正すことになる。
アーマン

全く、妄想である。
とんでもない、幻想的な考え方である。

更に、このような黙示思想的世界観が記されている、聖書の最初の書は、「ダニエル書」である。
紀元前二世紀に書かれ、ヘブライ語聖書の中では、一番新しい。

「ダニエル書」が成立した時代に続く数世紀の間に作成された、死海文書を始めとする、いくつかのユダヤの書物にも、同様の世界観が窺える。そして、それはイエスへと引き継がれていく。
アーマン

そこには、死者が復活するという、考えもある。

そして、
黙示思想家は、正義は行なわれると考えた。しかし、それはこの世での人生ではなく、やがて到来する時代に死者が復活するときである。神は、すべての死者を、その肉体も含めて蘇らせ、永遠の見返りや罰を与える。誰も、その定めから逃れることはできない。最後の幕を引くのは、悪ではなく神である。だから、死がすべての終わりではない。
アーマン
と、なる。

イエスも、そのようだった。
神の国は、人の子の降臨と共に、まもなく出現するという。

だから、神の国の、到来に備えて置くべきだ・・・
新約聖書の中で、多く語られている。

それが、遠い将来では、ないのである。

パウロも、最初期のキリスト教徒も、そのように考えていたのだが・・・
イエスと、パウロの違いは、パウロは、イエスが栄光に包まれて再来するときに、この王国がもたらすということ。

更にパウロは、終末における死者の復活が、すでに始まっていると考えていた。
イエスの復活が、パウロにとって、特別の意味を持ったのである。

イエスがすでに、死から蘇っているのだから、自分たちは、終末期に生きていると、信じた。
パウロが、終わりの時代に生きていると、語るのは、そのためである。

だが・・・
二千年を経た今も、まだ来ていないのである。

イエスやパウロや最初期のキリスト教徒にとって、永遠の命とは、天国ではなく、今現在私たちが立っているこの地上で、肉体に宿るものなのである。
アーマン

と、いうことだ。
実に、御苦労さん、である。

パウロは、自分たちはすでに霊的な復活を遂げたから、いまや霊的な救済の恩恵に浴することができると考えていたコリントの論敵を、嘲笑っている。復活は、肉体的なものなのだから、まだ起きていないのだ。この世界は、未だ悪の勢力下にある。そして、あらゆる問題が一掃され、イエスの信者が、その正しさが証明され、肉体が変容し、永遠の褒美を手にするのは、終末を迎えるときなのだ。
アーマン

パウロも、信じたが故に、陥ってしまったのである。
妄想の渦の中に・・・

現在のキリスト教徒は、どうだろうか・・・
死後、天国に行き、永遠の命を得ると、信じている。

疑うことより、信じることが、楽なのだろうか・・・
白人キリスト教徒を見ていると、実に、そんなことにお構い無しに、様々な悪事を思いつき、国を始めとして、個人に至るまで、天国などないような、生き方をしているのだが・・・

いや、カトリックから、プロテスタント、その他の、キリスト教系新興宗教に至るまで、天国などないような、生き方をしている。

そして、それが、正しいのだろう。
霊界に、天国などという、空間は存在し無い。



posted by 天山 at 05:57| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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