2014年07月22日

神仏は妄想である。488

初期キリスト教の神学者は、イエスの神性を信仰することで、大きな壁にぶつかった。神は大勢いるという異教の教えを排除し、ユダヤ教の堅固な一神教的伝統を、守り抜こうとしたからだ。
アーマン

イスラエルの王である主・・・は、こう言われる。
わたしは初めであり、終わりである。
わたしをおいて神はいない。 イザヤ書

神は、唯一の存在・・・

ユダヤ教的キリスト教徒だった、エビオン派は、神は一人しかいないのだから、キリストは、神ではないと、主張した。
キリストが神ならば、神は、二人いることになる。

イエスは、メシアであり、原罪を背負って死ぬことにより、この世で神の意志を実現するために、神によって選ばれた人間である。

ユダヤ社会では、メシアが神と見做されたことは、一度もない。

マルキオン派は、その正反対の見解を取った。
イエスは、まさに神であるから、人間ではない。

しかし、マルキオン派が、イエスと父なる神が、二人の別々の神とは、考えていなかった。彼らにとって、二人の神とは、ユダヤ教の神、すなわち旧約聖書の怒れる神と、イエスの慈悲の神だった。

更に、一部では、イエスは、受肉した神自身だとも、考えられた。

面白いのは、グノーシス派である。
彼らは、キリストが神であることに、何の抵抗もなかった。
それは、神性を宿す存在は、多数いて、キリストもその一人だからだ。

自分だけが、神であり、他にはいないという神は、本当の唯一神ではないという。それは、下位にいる劣った神である。
そして、この嫉妬深く、無知な神のうえには、神性を有するすべての存在が、住まう、より神聖な領域が存在するという、考えである。

しかし、上記の考え方は、すべて、異端として、斥けられる。

初期キリスト教が発展するにつれ、もし神が一人しかいないなら、イエスの神性をどう説明すべきか、という問題を解決すべく、人々は試行錯誤した。
アーマン

その一つに、天父受苦説、がある。
つまり、神自身が、受肉して、生まれたというものである。
この考え方は、サベリウウス主義と呼ばれる。勿論、サベリウスという人が、唱えたことである。

だが、破門される。

次に、テルトゥリアヌスである。彼は異端狩りで有名になった人物である。
彼は、父なる神と、神の子の位格、ペルソナは、別物だと、唱えるようになる。
彼によれば、二人共に、神だった。

そして、その考え方が、彼以降、洗練され、後に正統教義になるのである。

今度は、聖霊である。
「ヨハネ」の中で、イエスは、自分が天国に帰った後に、「別の弁護者」なる聖霊が、地上に降りてくると語ったので、聖霊も、神ということになる。

漸く、三位一体の神が、出来上がるのである。

その間には、また様々な、説や考えが蠢くが、省略する。

優に一世紀以上もの間、神学者は両者の関係について、議論を続けた。この問題は、四世紀初頭に、アリウスが巻き起こした論争の核心部分だった。アリウスは、神学が非常に盛んだったエジプトはアレクサンドリアの、有名なキリスト教教師だった人物である。アリウスの時代までに、原始正統派は、エビオン派、マルキオン派、それに種々のグノーシス派の集団といった初期キリスト教の異端派を一掃し、ないしは少なくとも完全に傍流派へと弱体化させることに、ほぼ成功していた。キリスト教教会に所属するほとんどの人が、イエスは神であるが、神は一人しかいないという考えを受け入れていた。しかし、どうしたら、このような考えが成り立つのだろう? なぜ父なる神と神の子が、一人の神たりえるのだろうか?

アリウスは、単純に、キリストは神だが、父なる神の下位にあるとした。神は、第二の神である、息子を、産んだ。
神は、キリストを通して、宇宙を創造した。そして、この世に、顕現する際に、受肉したのは、キリストだったとした。

勿論、これに意義を唱えた、アタナシウスもいた。
彼は、キリストと父なる神は、同じで、彼らは完全に同格であり、キリストが存在しなかった期間はないと、唱えた。

まあ、この辺で、話を止める。
結局、事の成り行きは、権力によるものである。

それは、キリスト教に改宗した、コンスタンティヌス帝が、この新宗教を、分裂した帝国を統合するために、利用しようとした。
それなのに、その宗教の中で、分裂しているのは、困る。

そこで、この皇帝は、この問題について、全キリスト教徒を結束させるために、決着をつけるべく、帝国内の最も重要な司教を招集して、ニケアで会議を開催した。
325年のニケア公会議である。

そこで、アタナシウスの説が採択されたのである。

その後も、議論は続いたが、アタナシウス派の見解が、今に至るまで、続いている。
それが、正統になった。

神格を有する位格は、三つある。
それらは、相互に独立している。
そして、等しく、唯一神である。同一の実体を共有する。
三位一体の教義、である。

三百年の間に、イエスは、ユダヤの黙示思想的預言者から、三位一体の位格の一つである神へと変貌した。初期キリスト教の発展は、まさに瞠目すべきものだった。
アーマン

だが、それは、イエスの宗教ではない。
イエスに、まつわる宗教の誕生である。

イエスは、我関せず・・・

現在も、なお、この妄想にキリスト教徒は、やられている。
無きものを、信じるという、愚行は、救いようがないのである。



posted by 天山 at 05:52| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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