2014年07月12日

霊学169

生と死の間に限定された人間は、体的、霊的、魂的の三世界に属している。
シュタイナー

霊魂を認める人は、当然のことだ。

魂は、体と霊との中間部分をなし、体の第三部分である、魂体に感覚能力を付与し、霊の第一部分である、霊我を意識魂の中で、有効に働かせる。

霊我は、意識魂が、養分を供給すればする程、より豊かに、より強くなる。

魂と霊の間のこのような相互作用は、当然のことながら、魂と霊とが混ざり合い、浸透し合う状態、つまりすでに述べた「霊我と意識魂」の合一状態においてのみ、可能だからである。
シュタイナー

さて、それから、魂体と感覚魂の、相互作用のお話である。

自分が知りえたと思うことを、文章にするのは、難しいが、特に、シュタイナーの場合は、難しい。

一つ一つの、シュタイナーの概念を覚える必要があるからだ。

肉体、エーテル体、魂体は一定の関連において、ひとつの全体をなしている。だから魂体も、肉体に形姿を与える遺伝の法則に従っている。そして魂体は体的本性のもっとも動的な、いわば流動的な形態なのだから、遺伝においてももっと動的、流動的な現れ方を示している。
シュタイナー

魂体は、個人的特徴の中でも、親から子に遺伝していく部分の担い手なのである。
シュタイナー

だが、魂は、完全に独自の生活を営んでいる。
好き嫌い、感情、欲望をもった完結した、存在である。

とはいえ魂も全体として有効に働くのだから、感覚魂においてもこの全体性が明白に刻印づけられている。この感覚魂が魂体に浸透し、いわば充満するので、魂体は魂のこの全体性に従って形成され、その上さらに遺伝の担い手として、性向、欲望等を先祖から子孫へと伝えることができるのである。
シュタイナー

魂と、魂体・・・
実に、妙なことだが・・・

感覚と感覚魂・・・

次に、魂と霊の相互作用である。

魂は、真、善の中に生きる能力とを、霊そのものから受け取る。霊我は、「私」に霊界から真と善の永遠の法則をもたらす。この法則は意識魂を通して、魂の独自の体験内容と結び付く。
シュタイナー

ここでも、躓く。
霊我は、「私」に霊界から・・・
だから、その霊界が、問題なのである。
その、霊界に行き着くために、私は、こうして、シュタイナーを紹介している。

つまり、霊界の存在を前提にして、お話しているのである。
それが、虚無ならば・・・
話は成り立たない。

また、それが、霊学、神秘学なるものなのだが・・・

このようにして永遠の霊に移ろいゆく生活の成果が刻印づけられる。
シュタイナー

本人だけが、納得し、理解する世界・・・

モーツアルトは、少年の頃、一度だけ聴いた長大な曲を、記憶だけで、譜面にすることが出来た。
それを例にして、シュタイナーが述べる。

この能力は霊我に刻印づけられているのである。そしてもしそれが生存中に刻印づけられたものでないとしたら、前世においてでしかない。
シュタイナー

ひとりの人間の霊はそれ自身でひとつの類である。
シュタイナー

上記は、聞き流すことの出来ない言葉だ。
人間の霊は、それ自身で、ひとつの類である。

つまり、一人一人の人間は、類ではなく、一つの類なのだということは、霊という存在は、絶対孤独の存在であるということ。
そして、シュタイナーが唱える、神智学、霊学も、それぞれで、違うということだ。

更に、一人一人の霊界も、違うのである。

ある部分の霊界を提示して、その霊界からの、情報のみで、霊的存在の人間を説くことは、誤りではないが、誤ることが多いといえる。

そして人間の体的類存在がその特徴を類の中に遺伝するように、霊は霊の類の中に、つまり自分自身の中に、その特徴を伝えるのである。
シュタイナー

更に、
或る人生の中で、人間の霊は自分自身の繰り返しとして、前世の諸体験の成果を担って現れる。この人生は以前の人生の繰り返しなのであり、霊我が前世において学び取ったものを必然的に伴っている。霊我は、成果となりうるものを自分の中に摂取するとき、生命霊に自分を浸透させる。生命体が種から種へその形態を繰り返すように、生命霊は魂を個人的存在から個人的存在へと反復させるのである。
シュタイナー

この通りだろう。
これは、普遍的なことである。

霊界と、前世を認める者には、当然のお話だ。



posted by 天山 at 05:28| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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