2014年07月07日

整体

整体

整体とは、何か。
体を整えることである。
だが、体とは、何か。

体とは、肉体のみを言うのではない。
肉体にまつわる、すべてを総称して、体という。

そして、体は、一つの器であるという、事実。

更に、体には、精神が宿る。生まれる。
精神とは、言葉の世界のことである。
また、更に、体は、心が伴う。

心には、魂が、伴う。

整体とは、それらを総称する、体を整えるという意味で、成り立つ。

整体は、中国式ということから、始まったようだが・・・
中国式は、すべて、道教の影響による。
その道教も、様々に、存在する。

だが、道教について、語る暇を持たない。

私の整体は、私の整体であり、それを神武流と名付ける。

体と、精神と、心と、魂を扱うのである。

だが、術としては、整体法でいい。
技と言っても、いい。
治療するのではない。

病と同じく、私が整体をすることで、不調な人を治すという考えは無い。
不調な人が、自らを癒すのである。

それでは、まず、整体の基本の基本は、脳である。
体は、脳とあまりにも、密接になっている。
普段は気づかないほどに。

体の歪みは、脳が作るのである。
だから、脳を整えなければならない。

それでは、脳を整えるには・・・
体を整えて、脳に、正しい体調を教えるのである。

体の不調和は、およそ、9歳、10歳頃から、はじまる。
それ以前は、脳波がシーター波を出して、自然治癒力を保つのである。
更に、その心も、健全で、生きることが楽しい。

だが、次第に、教育、習慣、環境、そして、強制により、体に不調和と、歪みが生じるのである。

その歪みは、骨をカバーしている、筋肉から起こる。
勿論、精神、心による、歪みもある。

筋肉は、糸のような筋で出来ている。
その束が、筋肉である。

その筋肉が、歪むと、骨に影響を与える。
そして、それが、常態化する。
その際に、脳も、それを受け入れて、それをインプットしてしまう。

同じ繰り返しをしていると、自然に、体が動くように、脳に、そのような指令が行き、そして、脳が、それを善しとして、以後、体に関与する。

不調和ならば、その通りに、脳は、覚える。
その脳を変えることが出来なければ、いくら、方法を取っても詮無いことになる。

脳が、これで良しと決めたら、体もそれに従うのである。

体を整えるということは、実は、脳を解放する、或いは、快方することである。

そして、面白いことに、体は、すべてが結び付いている。
単独にあるものは、何一つ無い。

つまり、体のどの部分も、体のすべてに結び付いているということである。
だから、反射区といわれる場所が、足裏や、掌にまで存在する。

漢方では、経絡と呼ばれる、流れがあるが、実際に、それは目に見えないものである。しかし、経絡と言わなくても、体は、すべてつながっているのだ。

指先まで、体のすべてと、つながる。
そして、それは、血液と、筋肉により、つながっている。

血流とは、体の中をすべて巡る流れであり、筋肉も皆、結び付いて、一番遠い場所でも、それは、即、筋肉を通して、反応する。

整体とは、それを根拠にして、不調和を調和に変容することを言う。
だが、不調和を調和だと、信じる人には、手の施しようが無い。

何が、調和して、何が、不調和なのかまで、忘れてしまうのが、人間である。

だから、体が、本当に不調和により、不自由になって、はじめて、おかしいと、気づく。

肩が痛い・・・
それには、様々な原因がある。
外科的原因、内科的原因、そして、筋肉による原因、精神的原因、心的原因、あるいは、魂までに至る、因縁による原因などである。

五十肩だと思っていた人が、ようやく、辛くなり、病院に行き、レントゲン検査で、筋肉が切れていたことが判明した。
もし、五十肩だと、信じていて、何もしなければ、そのまま、筋肉が切れたまま、死ぬ。

整体は、体に関することには、何に関しても、学ぶことが終わらないと言う道である。

精神科医も、名医になると、患者が診察室に入って来た、そのすべてを鑑みて、判断することが出来る。
勿論、他の医療の名医も、そうだろう。

医者も、見当をつけるのである。

その見当を放棄して、検査に頼るようになったのが、今の時代である。

顔色を見て、触診して・・・
血色を見て、更には、血色の奥にある、気流を観るこれが、整体には、必要になる。

相学とは、手相、人相、骨相を観ることだが・・・
整体も同じである。

気流とは、体から出る、微量な遠赤外線である。
オーラとも呼ばれる。

気流が無くなると、死ぬ。
それが、肉体と霊、魂と、つながっていた痕跡なのである。

日本では、霊魂と言うが、霊は、魂によって、支えられている。
その光が、気流である。

ただし、その気流にも、段階がある。

血色があり、気流があり、霊流がある。
霊流を観るには、特別な感覚を要する。

はじめは、掌から出る、気流を観る訓練からはじまる。

気功といわれる術とは、違うものである。
特別な行をして、得るものではない。

人間の体を扱うと、自然に、身についてくるものである。
それが、訓練である。

特別な訓練を要するものを、一応、否定しておく。
それは、別世界のものである。


posted by 天山 at 06:07| 整体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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