2014年07月06日

国を愛して何が悪い143

古代人は、死と死骸というものを潔癖に区別していたらしい。罪が「災ひ」として即物的に考えられていたように、死骸に対しても極めて即物的で、不潔感や嫌悪の情を露骨に示している。
亀井

古事記の、イザナミノミコトが死んだ様は、とても迫力がある程、醜いものである。

死ぬことと、死骸を別にしていた。
死骸は、穢れたものである。
死は、魂が抜け出た状態である。

つまり、死者の魂は、肉体を離れて、山へ帰ると、考えられた。
そして、山から、空に、あるいは、海原に流れて消える。

死後についての、統一した観念は無かったのである。
ただ、死者は、年に一度、戻ってくる。

更に、山にいる死者の魂は、見守っている。

葬送にしても、全くそっけないものである。
集落の者たちが、野辺の送りをして、死骸を埋める。

あるいは、自然の中に放置する。

現在でも、少数民族の葬送を見ると、古代の写しのような葬送が見える。
タイ北部のカレン族の村では、死者が出ると、一晩、その死者の周りを若者たちが、ぐるぐると回り、お前は死んだ、死んだ国に行きなさい、と唱えて、翌日には、森の決められた場所に、埋める、あるいは、そのまま放置する。

葬送の儀式といえば、それだけである。

現在の日本は、多く仏教式による、葬儀が行なわれるが、元々、仏教は、葬式を行なわなかった。
勿論、神道もそうである。

すべて、野辺の送りであった。

鎌倉時代になり、戦乱の後に、多くの武者の死骸を見て、名も無き僧たちが、その死骸に読経して、葬ったのが、はじめである。

だが、それでも、鎌倉時代は、死骸を道に捨てていた。
あるいは、森の中に・・・

江戸時代になり、檀家制の元で、仏教が、葬式を請け負うことになる。

古事記全体を通して、最も印象深いのは、やまと・たけるの場合で、周知のとおり、白鳥と化して飛び去る。
亀井

このときの「天」はまた「海」に通じていたのかもしれない。大海原の水平線では、天と海は一つになってみえるところから、古代人は双方の言葉を同じ意味に使うことがあった。その水平線へ消えてゆく一羽の白鳥という幻想は、死後の行方について抱いた古代人の、最も美しい信仰と言っていいのではなかろうか。
亀井

天も海も、アマと読む。
共に、同じ意味というのが、興味深い。

結局、死を隠れると表現するように、自然の中に、隠れることを言う。

死骸は、もうモノの一つである。

それよりも、肉体から離れた魂の、行方を求めた。
つまり、完全に魂の存在は、確固として、存在していたのである。

しかし、一つ不思議なことがある。
古事記の中に登場する、多くの神々の、また、登場人物の像というものが、一つも無いということである。

その疑問は、数多くの仏像が造られたことが事実であり、それは、造形美術として、今なお、拝む対象、また、美術的価値を持って、存在しているということである。

何故、神像などが、造られなかったのか・・・

古事記の成立した元明朝は、白鳳から天平へ移る仏像の最盛期にあたる。そうならばそれに刺激されて、仏像と併行して神像がおびただしく制作されてもよかった筈だと思うが、いわゆる「神像石」以外には存在しない。
亀井

それは、神々は、拝む対象でも、崇拝する対象でもなく、共に存在するものであったと、考える。

それが、祭りである。
その祭りの際に、神呼びを行い、共に歌い、踊り、食すのである。
そして、終わると、元にお戻り頂く。

人間に遠い、存在ではなかった。

だが、一つだけ、神像に代わるものがあった。
それは、天照大神の鏡である。
それは、剣と玉と共に、古代で最も尊重されたものである。

天孫降臨の際に、天照が、これを私と思い、この宝鏡を見ることは、まさに私を見るが如くである、と述べる。

はじめて鏡をみたときの古代人の心の中には、自己発見の驚きとともに、それを持っている人の魂が宿るという信仰があったのであろう。「鏡」は「像」と同一視されていたこと・・
鏡における魂の存在を強く信じていたところから、神像制作をかえりみなかったともいえるだろうか。
亀井

それらは、大陸から伝来したものである。
それが、古事記、日本書紀に、高天原から云々とは、まさに、神話である。

それらは、後に、天皇の存在を証明する、三種の神器となるものである。
その神話を元に、今も尚、天皇の存在証明となっているというのが、驚嘆することである。

神武建国から、今年は、2674年である。


posted by 天山 at 05:23| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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