2014年07月01日

神仏は妄想である。487

さて、イエスの神性について・・・
これが、後に、三位一体説になる、序章である。

最も新しい福音書である「ヨハネ」は、イエスが神の子になった時点を、さらに遡らせ、永遠の昔からそうだったことにしてしまった。イエスの神性に言及している福音書は、「ヨハネ」だけである。
アーマン

ルカが、「使徒言行録」の中で、一度も、神だとは、書いていない。
神が、イエスに特別な地位を授けたのは、復活した時だという。

つまり、その前は、イエスは、人間なのである。

使徒言行録では、ペトロが、
ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。
と、ある。

パウロも然り。
わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩篇の第二編にも、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日あなたを産んだ」
と書いてあるとおりです。

これは、キリスト教信仰の最古の姿であるように思える。イエスは、神によって、その威力を示すための力を授かった人間だった。彼は、ユダヤの指導者に受け入れられず、殺された。しかし、神は、彼を蘇らせ、高い地位につけることによって、彼が義であることを証明してみせた。
アーマン

だが、復活の後ではなく、その宣教時代を通して、イエスが、神の子だと考える、信者が出現する。
マルコの福音書では、イエスが、ヨハネから洗礼を受けた時である。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
という声が、天から降ってくるという・・・

古代ユダヤ人にとって、神の子であることは、神と同義ではなかった。
旧約聖書では、何人も、神の子と呼ばれている。

更に、イスラエル王国自体が、神の子と、考えられている。

神の子であるとは、通常、地上における神との仲介者であることを意味した。
アーマン

再度、まとめると、最初は、復活の際に、神の子になったから、後に、洗礼を受けたときになり、ルカ福音書では、生まれた瞬間から、神の子となった。

マルコと違い、ルカには、受胎告知の際に、天使ガブリエルが現れて、
聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
と、書く。

そして、ヨハネに至る訳である。

ヨハネは、そもそもの始まりから、神の言として、神と共にいたから、神の子であるという。

この、キリストがすべてのものに先立つ神の言であり、受肉したという考えは、標準的なキリスト教教義になったのである。

しかし、このような思想は、イエスの信者が本来奉じていたものとは違う。イエスが神性を宿す存在であるという発想は、後世のキリスト教徒が思いついたもので、四つの福音書のうち、「ヨハネ」にしか見出せないのである。
アーマン

これほど、高められた、イエス・キリスト観・・・
何故か。

学者は、長年この疑問に頭を悩ませてきた。そして、ある種のコンセンサスが、過去二十五年から三十年のうちに、「ヨハネ」の解釈者の間で出来上がった。このコンセンサスは、新約聖書の解釈で世界的に有名な二人の大家が、二十世紀末に提議したものである。一人はプロテスタント、もう一人はローマン・カトリックで、どちらもニューヨークのユニオン神学校で教鞭を執っていた。この二大巨頭、すなわちJ・ルイス・マーティンとレイモンド・ブラウンは、イエスの神性を強調している「ヨハネ」のキリスト論が、この福音書が書かれる以前に、ヨハネの属していたキリスト教共同体の仲間内で変化したキリスト観を踏襲しているのだと主張した。こうした変化は、この共同体の社会的経験の影響を受けていた。
アーマン

この二人、
彼らが、ヨハネの共同体の歴史を再構築することによって、なぜ彼らがイエスにまつわるあのような物語を語ったのか、説明しようとした。
アーマン

簡潔に書く。
ヨハネのキリスト論は、高いキリスト論であり、他のキリスト論は、低いキリスト論である。

ヨハネの福音書の中には、それらが、混在している。
その落差は、実に激しい。

そこで、二人の巨頭は、人間味溢れる言葉でイエスが描かれている箇所は、この福音書が具現化している最古の言い伝えであり、高められた存在としてのイエスを描く箇所は、後世の産物だと、考えたのである。

ヨハネの共同体は、元々、シナゴーグに属する、イエスがユダヤのメシアであることを、受け入れていたユダヤ教の一派である。
だが、この信仰のために、シナゴーグを去ることを強いられた。
そして、イエスを信じる、信者の共同体を作った。

更に、その共同体は、不遜にも、自分たちだけが、イエス・キリストの真実を知る者であると、成した。
自分たちの共同体だけが、光の中にある、他の者たちは、地上の人間であり、理解する事が出来ないと、考えた。

という、いかにも、妄想の信者らしい・・・

この共同体が、シナゴーグを追われた我が身について説明するために編み出したイエス観は、どんどん高められていった。ついには、神と正しい関係を結ぶには、神が遣わしたこの者を受け入れなければならないと言い始めた。すなわち、人は、「霊的」に新たに生まれなければならない。共同体の外部の人間は、生きてはおらず、命を得ることは、決してない。彼らは神の子ではない。彼らは悪魔の子だ。
ヨハネの共同体が、このような思想を持つようになると、イエスは、ますます高みに祭り上げられた。最終的に、「ヨハネ」が書かれたときには、作者は、共同体で語られていた様々な伝承を合体させた。だから、イエスを完全なる人間とみなす本来の伝承と、彼を神とみなす、後から作られた伝承がごた混ぜになっているのだ。かくして、イエスが神であるという思想が誕生した。
アーマン

神仏は妄想である。



posted by 天山 at 05:49| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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