2014年07月01日

神仏は妄想である。487

さて、イエスの神性について・・・
これが、後に、三位一体説になる、序章である。

最も新しい福音書である「ヨハネ」は、イエスが神の子になった時点を、さらに遡らせ、永遠の昔からそうだったことにしてしまった。イエスの神性に言及している福音書は、「ヨハネ」だけである。
アーマン

ルカが、「使徒言行録」の中で、一度も、神だとは、書いていない。
神が、イエスに特別な地位を授けたのは、復活した時だという。

つまり、その前は、イエスは、人間なのである。

使徒言行録では、ペトロが、
ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。
と、ある。

パウロも然り。
わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩篇の第二編にも、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日あなたを産んだ」
と書いてあるとおりです。

これは、キリスト教信仰の最古の姿であるように思える。イエスは、神によって、その威力を示すための力を授かった人間だった。彼は、ユダヤの指導者に受け入れられず、殺された。しかし、神は、彼を蘇らせ、高い地位につけることによって、彼が義であることを証明してみせた。
アーマン

だが、復活の後ではなく、その宣教時代を通して、イエスが、神の子だと考える、信者が出現する。
マルコの福音書では、イエスが、ヨハネから洗礼を受けた時である。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
という声が、天から降ってくるという・・・

古代ユダヤ人にとって、神の子であることは、神と同義ではなかった。
旧約聖書では、何人も、神の子と呼ばれている。

更に、イスラエル王国自体が、神の子と、考えられている。

神の子であるとは、通常、地上における神との仲介者であることを意味した。
アーマン

再度、まとめると、最初は、復活の際に、神の子になったから、後に、洗礼を受けたときになり、ルカ福音書では、生まれた瞬間から、神の子となった。

マルコと違い、ルカには、受胎告知の際に、天使ガブリエルが現れて、
聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
と、書く。

そして、ヨハネに至る訳である。

ヨハネは、そもそもの始まりから、神の言として、神と共にいたから、神の子であるという。

この、キリストがすべてのものに先立つ神の言であり、受肉したという考えは、標準的なキリスト教教義になったのである。

しかし、このような思想は、イエスの信者が本来奉じていたものとは違う。イエスが神性を宿す存在であるという発想は、後世のキリスト教徒が思いついたもので、四つの福音書のうち、「ヨハネ」にしか見出せないのである。
アーマン

これほど、高められた、イエス・キリスト観・・・
何故か。

学者は、長年この疑問に頭を悩ませてきた。そして、ある種のコンセンサスが、過去二十五年から三十年のうちに、「ヨハネ」の解釈者の間で出来上がった。このコンセンサスは、新約聖書の解釈で世界的に有名な二人の大家が、二十世紀末に提議したものである。一人はプロテスタント、もう一人はローマン・カトリックで、どちらもニューヨークのユニオン神学校で教鞭を執っていた。この二大巨頭、すなわちJ・ルイス・マーティンとレイモンド・ブラウンは、イエスの神性を強調している「ヨハネ」のキリスト論が、この福音書が書かれる以前に、ヨハネの属していたキリスト教共同体の仲間内で変化したキリスト観を踏襲しているのだと主張した。こうした変化は、この共同体の社会的経験の影響を受けていた。
アーマン

この二人、
彼らが、ヨハネの共同体の歴史を再構築することによって、なぜ彼らがイエスにまつわるあのような物語を語ったのか、説明しようとした。
アーマン

簡潔に書く。
ヨハネのキリスト論は、高いキリスト論であり、他のキリスト論は、低いキリスト論である。

ヨハネの福音書の中には、それらが、混在している。
その落差は、実に激しい。

そこで、二人の巨頭は、人間味溢れる言葉でイエスが描かれている箇所は、この福音書が具現化している最古の言い伝えであり、高められた存在としてのイエスを描く箇所は、後世の産物だと、考えたのである。

ヨハネの共同体は、元々、シナゴーグに属する、イエスがユダヤのメシアであることを、受け入れていたユダヤ教の一派である。
だが、この信仰のために、シナゴーグを去ることを強いられた。
そして、イエスを信じる、信者の共同体を作った。

更に、その共同体は、不遜にも、自分たちだけが、イエス・キリストの真実を知る者であると、成した。
自分たちの共同体だけが、光の中にある、他の者たちは、地上の人間であり、理解する事が出来ないと、考えた。

という、いかにも、妄想の信者らしい・・・

この共同体が、シナゴーグを追われた我が身について説明するために編み出したイエス観は、どんどん高められていった。ついには、神と正しい関係を結ぶには、神が遣わしたこの者を受け入れなければならないと言い始めた。すなわち、人は、「霊的」に新たに生まれなければならない。共同体の外部の人間は、生きてはおらず、命を得ることは、決してない。彼らは神の子ではない。彼らは悪魔の子だ。
ヨハネの共同体が、このような思想を持つようになると、イエスは、ますます高みに祭り上げられた。最終的に、「ヨハネ」が書かれたときには、作者は、共同体で語られていた様々な伝承を合体させた。だから、イエスを完全なる人間とみなす本来の伝承と、彼を神とみなす、後から作られた伝承がごた混ぜになっているのだ。かくして、イエスが神であるという思想が誕生した。
アーマン

神仏は妄想である。

posted by 天山 at 05:49| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月02日

国を愛して何が悪い139

高天の原で、決定的ともいえる二つの事件の起こったとき、登場するのがこの神である。ひとつは天照大神が石屋戸に身を隠して、世が暗闇になったとき、いわゆる「岩戸開き」の一切を計画したのはこの神であった。もうひとつは、豊葦原の瑞穂の国を平定すべく、どの神を降臨させるかが四度にわたって問題になったとき、候補者を指名したのもこの神であった。八百万の神々のくだりで「思金の神に思はしめて」とあるのがそれである。八心思兼神とも称して、様々のことを思い兼ねもつ、言わば人間の叡智の極限を神格化したものとも解されているが、同時に興味深いのは。この神は産巣日神の子とされていることである。
亀井

思金神、おもいかねのかみ、である。

人間の叡智の極限を神格化させた・・・
その通りである。

そして、思うということは、即座に、言葉につながる。
更に、思いは、述べられる。
唱えられる。

そして、発せられた言葉は、成るのである。
これが、言霊と言われる所以になる。

その、原始の姿をもって、思兼神と、言う。
その、兼ねは、兼ねているのである。
発言と思考である。

思う、は内的なものではなかった。
思う、とは、唱えごとをするという、意味でもある。

そして、それが、伝わる・・・

言葉が「伝わる」ということは、或る意味で言葉が「受難する」ということだ。誤解歪曲なしに伝わるということはまづないからである。口伝は変化するし、文字で書かれたときも、その時代や書く人の主観で変化する。長いあいだには死語となるものもあり、また死語の復活もある。わづか一語であっても、幾通りに解されることがあるし、自分でわけがわからないで使っている言葉もある。
亀井

わかがわからずに、使う言葉の、いかに、多いことか。

毎日、何か書き付けている私自身も、もし、その言葉の意味を尋ねられて、明確に答えることが、出来るのかと、問うことがある。

文の流れの中で、何となく・・・使う・・・

おそらく言語表現の異常な困難と、伝承における混乱とを古代人が自覚したところから、この自覚過程の神格化として思兼神が創り出されたとも考えられる。
亀井

すでに、古代において、言葉の混乱があったということ。

そこで、亀井が、
「八百万の神々」の存在とは「八百万の言葉」の同時存在と同義ではなかったろうか。原始古代の或る時期に、産霊による言葉の盛んな生産時代があったように思われる。
と、言う。
さまに、卓見である。

神とは、言葉のこと・・・
私は、そのように思う。
または、神のように、扱うものとの、意識である。

ちなみに、縄文末期から、弥生の初期は、人類の坩堝状態だったのが、日本列島である。
そこから、考えても、言葉と、それぞれの人種の思いは、交錯していたと思われる。

混血の時代であり、日本の古代人の産卵期である。

現在、世界的に英語が使用されている。
ところが、米英英語ではなく、ブロークン英語の時代到来なのである。
英語圏ではない人たちが、英語を使うようになり、米英の英語より、ブロークン英語が通用する時代になっている。

そして、相手の言うことを、探りつつ、理解しようとする。
古代の人たちも、そのような状態に似ていると思うのである。

いずれ、ブロークン英語が、何となく、統一されて、新しい英語が、出来上がる過渡期にあると、思う。

日本語の前に、大和言葉があり、それ以前には、縄文、弥生言葉がある。
大和言葉に統一されて行く過程が、面白い。
それは、為政者の台頭がある。

それぞれの、地域に、集落に、上、カミという、長が誕生する。
特に、弥生に入り、収穫物の管理、分配を行なう人、それを、カミと呼んで、その言葉を尊重した。

そして、その長は、何かしらの、信仰に似た形態を指導する、祭司になることにもなる。

長、オサである。
オサは、巫女に仕えたのかもしれない。
つまり、巫女の神託を、民に伝える人。

巫女の、わけのわからない言葉を、通訳した人・・・

再度、八百万の神々は、八百万の言葉であるとの見解は、実に納得するものだ。

唯一絶対のカミと、言葉を持つ、民族との違いを考えれば、当然、納得する。
唯一絶対ということでの、対立、争いは起こらない。

旧約聖書における、唯一絶対の神の命令を下す厳しさは、日本神話にはない。

それは、自然、風土の違いだけではない。
民族の根本的な違いである。

人を何かの元に、縛りつけることはしないのである。
寛容な考え方・・・

日本神話には、寛容と、和というものが、見事に存在する。
闘いの場面も、神話的である。
皆殺しなどということは、ないのである。

posted by 天山 at 05:42| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月03日

国を愛して何が悪い140

文字の無かった時代に、思うとは、直ちに、声に出して、唱えることを、意味したと思われる。

「言霊」という言葉は古事記にはないが、音声の調子から、おそらく霊を感じとったにちがいない。同時に兼ね「思ひ」、同時に兼ね「唱ひ」、言葉はこうして魔術性を帯びてくるために、分析的になるよりは直観をはたらかせ、わけのわからない混沌から暗示を得ようとつとめたのではなかったか。
亀井

それは、聞く行為であり、「聞く」ことは、「信ずる」ことになり、肝に銘じた言葉は、暗誦へと移り、暗誦の伝承の作法というべき、独自の感情の、論理が成立した。
と、亀井は、考えている。

そして、やがて、書物が日本に入り、書物は、眼で見るよりも、まず耳で聞くものと、考えられていた。

書は、声を伝えたもの、という意識であった。

加えて、古事記は、神道を説いた、書ではないということだ。
後世、古事記を神道の経典のように扱うのは、大きな間違いの元となる。

古事記は、
太古における「言葉のいのち」の集大成である。
亀井

それぞれの民族の神話があるが、日本の古事記のような神話は、少ない。
伝承の集大成である。
そして、それが、実に混沌としている。
つまり、言葉の混沌そのままである。

古事記や日本書紀の基礎になったものは、それ以前に大氏族家に残された文献であったろうが、その文献の基礎になったのは、やはり語部の伝承であったとみて差し支えあるまい。
亀井

口伝は事実であり、それがなければ、伝承は無理である。
そのため、語部の存在は、否定する事は、出来ない。

国書の断片が、天智天皇に渡され、それから、天武天皇によって、稗田阿礼が、朗誦したものが、古事記である。
稗田阿礼は、宮廷語部の一つである、猿女の君の、支流に当たるといわれる。

語部の存在は、古代から、中世、近世まで、続いてきたもの。

それは、日本固有の、言語伝承の一つのパターンだった。

それが、繰り返し、繰り返し、伝えられたことで、その定型が徐々に出来上がってきた過程を思う。
それが、民族の精神である。
つまり、民族の言葉である。

万葉集にも、多く似た歌が多い。
それは、一人が歌詠みしたものを、共感し、人が人に伝えて、繰り返し歌われたものである。

読み人知らずの多くは、それである。

言葉が、共有されることにより、民族の言葉の基礎が出来る。
そして、その言葉に関する、意味付けである。

また、観念の薄い時期に、すでに、その東雲が現れていた。

古事記、万葉集の中の歌の数々は、多く、繰り返されることによって、校正され、洗練されていったと、思われる。

幾たびもくりかえし歌われ、伝承され、そのたびごとに、歌詞も歌い方が洗練されて行ったと思う。つまり、古代の氏族共同体の中での、唱和による集団的推敲の結果ではなかったかということだ。中心になったのは言うまでもなく語部であり、言霊信仰も、こうした集団による唱和の雰囲気のうちに成立したのではなかったか。
亀井

それでは、日本には、精神史、あるいは、思想と呼ばれるものが、存在しなかつたのか。

これは、西欧の思想、哲学から見れば、歴然としているように、日本には、西欧のような思想、哲学というものが無い、あるいは、その形跡さえ見えないと結論付けられている。

言葉が成り立ってから、思想、哲学が存在しないとは、実に、おかしな話である。

西欧のような・・・
それが、間違いの元である。

西欧には、それでは、日本のような言葉の世界があるのか・・・
それは、無い。
それで、十分である。

何故、改めて、日本には、思想が無いなどということが、問題になるのか。

言葉、そのものが、思想である。
それが、日本の思想であると、言える。

思想は、言葉による。
つまり、言葉が成立したということは、思想が成り立つのである。

体系化した思想・・・
西欧のそれを真似て・・・
その必要の無いのが、日本語である。

言葉を積み上げて、何事かを語るという言葉と、一音に意味がある、日本語とでは、全くその成り立ちが違う。

その成り立ちを無視して、思想がないとは、笑わせる。

学者の中には、
自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当たる思想的伝統はわが国には形成されなかった、ということだ。
と、言うように。

私は、その必要がなかったのだと、言う。
posted by 天山 at 05:26| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月04日

国を愛して何が悪い141

古事記の中には、神という言葉から想像されるような、「神聖な神」は原則として存在しない。生(或いは性)と生産の秘密に直結した或る意味で極めて即物的なもの(時には猥雑なものすら)が「神々」と呼ばれ乃至はその行為とされている。
亀井勝一郎

神々と呼ばれ、乃至は、その行為とされている。
実は、すべて行為のことである。

漢語の神という文字を当てただけである。

唯一絶対の神という、観念を持たないのである。
そして、神という言葉に最も近いものは、自然である。
そして、その自然の働きに、行為に、神という文字を当てた。

人間の観念の神というものを、必要としないということである。

日の神としての天照大神が神聖視されているようにみえるが、実は神々の中でも最も抽象的な存在であって、さきに述べた産霊神が、生殖、農耕、言語表現等のうちに、様々にかたちを変えて具体的に偏在する根元の活力となっているようである。
亀井

具体的に偏在する。
まさに、自然の働きである。

唯一絶対の神という、観念を作り上げた民族は、民族の混乱を静めるために、必要だった。

しかし、日本民族は、それを必要としなかった。

唯一絶対の神観念を持つ民族の、野蛮さを見るがいい。
兎に角、いつも、争いである。
争いが、絶えたことは、無い。

何事であれ、「生む」こと、「あらわれる」ということのふしぎ、またその過程についての驚きや歓喜を、古代人は第一義的なものとして口伝したらしい。「神々」という言葉のひびきのうちには、自然や人間に対する彼らの新鮮な好奇心が宿っていた筈だ。またその点についての表現が美しく豊富であればあるほど、神々を喜ばせることだと信じていたようである。
亀井

実に、平和な民族である。

日本には、欧米の神観念は、皆無である。
それは、考え方が、全く違うということだ。

更に、アラブの神観念も、同じく、唯一絶対である。

それは、それぞれの、風土によると、理解するが・・・
また、民族の性格にもよるものである。

生き物を殺さないという、仏教も、風土によるものが、大きい。

だから、日本の神という、観念は、霊に近いものである。
霊は、数多く存在する。

そこには、神同士の争いは、無い。

更に、
ところで、他方にはこれを破壊するものがある。生殖に対しては死、農耕に対しては天災、また人間の過失もあるが、生(或いは性)の歓喜の表現として言うなら、こういう点における表現力は貧しい。「罪」という言葉も出てくるが、それを裁く、言わば罪を罪として自覚させるような峻厳な神は存在しない。したがってそのことに関する深い「神語」もない。すさのをのみこと唯ひとり、暗い情熱を抱いて彷徨しているのが印象に残るだけだ。
亀井

この、罪という、漢語をどのように、理解し、表現に使用したのか・・・
実は、この罪という言葉の意味合いのものは、どこにも無いのである。

延喜五年、905年に編纂された、延喜式の中に、六月の晦の大祓、という祝詞がある。現在も、六月、十二月の末日に使用されている、祝詞である。

そこには、仏教以前の罪の意識が残る。

天つ罪と、国つ罪である。
その文は、省略するが、天つ罪は、八種類を上げている。
それは、農耕生活を破壊する行為である。
人為であれ、天災であれ、それを罪の名として、呼ぶ。
だが、この場合は、どちらかというと、災いという意味が強い。

国つ罪は、十二種類である。
それらは、人間の共同生活に取り、忌むべき行為である。
病気や、虫などの害も、含まれていて、穢れという意味合いが強い。

更に、罪に関する、歌詠みは、一つも無いことである。

生まれた時点から、原罪があるとする、キリスト教などとは、全く違う感覚である。

人に、罪意識を覚えさせて、支配するという、支配者、為政者のものとは、別物である。

万が一、罪を犯したとしても、罪の自覚が見えないのである。
また、その表現も皆無である。

一体、これは、どういうことか・・・
知性の遅れか。

旧約聖書などと、比べてみても、全く違うのである。
あちらは、神が罰を与える。
その大半は、殺される。

旧約聖書は、典型的な父系型である。
しかし、日本神話の場合は、母系型である。

つまり、母系型は、最も、自然に使い感覚を持つ。

古代文明の平和的な状態は、母系型が、主流だった。
それが、父系型に移行するにつれて、様々な制約が生まれた。

更に、歪な人間性である。
そこには、強制という暴力が付きまとうのである。
posted by 天山 at 05:06| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月05日

国を愛して何が悪い142

罪の観念よりも前に、まず「わざはひ」と「けがれ」という意識が、古代にさかのぼるほど強かったと言えるだろう。祝詞をみても、「犯してはならぬ」という神の絶対的命令とか戒律のような調子は全然ない。神々の存在が即物的であったように、「わざはひ」「けがれ」も即物的であって、事の起こったとき、受動的に「罪」という言葉が発せられたのではなかろうか。当初はこの言葉もなかった筈だ。漢字の「罪」をあてたわけだが、「つみ」についての思索、その感情的表現すらも稀薄である。
亀井

確かに、そのようである。
だが、本来、ツミという言葉は、恵みを表していた。
海神、わだつみ・・・

海の神と書いて、わだつみ、と呼ぶ。
この場合は、ツミはカミであり、恵みである。

漢字の、罪、ザイという言葉を、神の別の面として、捉えた可能性がある。
それが、災いである。

そして、その神を、荒ぶる神と、呼んだ。

山神、やまつみ、も同じである。

時に神々が、荒ぶる神にもなるという・・・

更に、面白いことに、死後の世界である、黄泉の国へ行った時にも、生前の罪に対する、裁きが無いのである。
これは、世界の神話を通しても、異例のことである。

それほどに、日本の風土が、人に優しかったと言える。

ただし、仏教伝来以降は、地獄という観念が植え付けられて、地獄における、裁きという、観念が生まれる。

最初の死後の世界、黄泉の国は、ただ、汚濁、災禍の世界に過ぎない。

それも、風土にあると、いえる。
日本の古代人は、地震、噴火、洪水、台風、旱魃などに、しばしば襲われた程度であり、異民族との虐殺の歴史などは、皆無である。
その自然の様のみ、恐怖を抱いた。
そして、その恐怖を、荒ぶる神として、対処してきた。

その、荒ぶる神、自然をなだめるための、祈りが第一義にあった。
それが、祝詞、言葉である。

自然をなだめるように、罪そのものも、なだめるという形を作り上げた。

それは、自然の中に、安らかに、解消しようとするものである。

そこで、言霊の美の作用が生まれる。
祓いの祝詞の一部を見ると、
朝風、夕風の吹き払う事の如く・・・
大船を、ヘ解き放ち、トモ解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く・・・
残る罪はあらじと祓え給ひ清めたまう事を・・・
と、ある。

一種の言語魔術の「美」によって、神々をなだめ、「罪」を吹き掃い、雲散霧消させようとつとめていることだ。「祝詞」は目で読むものではなく、唱えるものであるから、そのときの音声もむろん影響してくるだろう。
亀井

現代に至るまで、この言葉の「美意識」によって、日本人は、清めることをしているのである。

そして、それらの「罪」は、すべて海に向う。
すると、海にいます、神々が、それを受け取り、最後に、消滅させてしまうという。

つまり、祓いに使用したものを、川、海に流して、それらの行為が終わるのである。

水に流す・・・
今も、日本人は、その言葉によって、すべてを、消滅、解決してしまう能力を持つ。

一度、水に流すことによって、後に引かないのである。
これは、智恵である。

或る民族のように、千年前の恨みを持ち続けるという、不健康な精神は無い。

自然が、絶えず、変転し、更に、新しくなるように、いつも、新しく、清くあるべきだという、考え方である。

ただし、仏教伝来によって・・・
それが、大変革を強いられることになる。

それが、表に現れてくるのが、平安期からである。

平安期から中世を経て、近世にいたるまで、日本人の精神史をつらぬくひとつの強い線があるとすれば無常観である。
亀井

しかし無常観が無常感となり、さらに無常哀感、美感に転移してゆく過程と、無常美感となってはじめて日本人の心にしみわたって行ったのではないかという点も・・・
同時に、日本では、無常感(或いは美感)が罪悪感を上回ってそれを代行したのではないか。そして無常「観」が「感」となり「美感」となるこの転移の過程に、さきの「さすらひ」という観念が作用してきたのではいか。
亀井

この、さすらい、とは、祝詞の後半の、罪を、さすらい失うという言葉からのものだ。

さすらひ、失う・・・
罪の解消を、さすらひ失う、という感覚である。

これは、日本人特有の考え方であり、捉え方である。

亀井は、この「さすらひ」と「無常美感」が結合してゆくと、見ている。
であるから、仏教による、罪悪感も、日本人独特の受け取り方、受け入れ方をしたようである。

仏教が、日本化される過程にも、それは、大きな影響を与えた。
仏教受容の過程は、また、日本人の精神史の大きな、テーマである。
posted by 天山 at 06:03| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

国を愛して何が悪い143

古代人は、死と死骸というものを潔癖に区別していたらしい。罪が「災ひ」として即物的に考えられていたように、死骸に対しても極めて即物的で、不潔感や嫌悪の情を露骨に示している。
亀井

古事記の、イザナミノミコトが死んだ様は、とても迫力がある程、醜いものである。

死ぬことと、死骸を別にしていた。
死骸は、穢れたものである。
死は、魂が抜け出た状態である。

つまり、死者の魂は、肉体を離れて、山へ帰ると、考えられた。
そして、山から、空に、あるいは、海原に流れて消える。

死後についての、統一した観念は無かったのである。
ただ、死者は、年に一度、戻ってくる。

更に、山にいる死者の魂は、見守っている。

葬送にしても、全くそっけないものである。
集落の者たちが、野辺の送りをして、死骸を埋める。

あるいは、自然の中に放置する。

現在でも、少数民族の葬送を見ると、古代の写しのような葬送が見える。
タイ北部のカレン族の村では、死者が出ると、一晩、その死者の周りを若者たちが、ぐるぐると回り、お前は死んだ、死んだ国に行きなさい、と唱えて、翌日には、森の決められた場所に、埋める、あるいは、そのまま放置する。

葬送の儀式といえば、それだけである。

現在の日本は、多く仏教式による、葬儀が行なわれるが、元々、仏教は、葬式を行なわなかった。
勿論、神道もそうである。

すべて、野辺の送りであった。

鎌倉時代になり、戦乱の後に、多くの武者の死骸を見て、名も無き僧たちが、その死骸に読経して、葬ったのが、はじめである。

だが、それでも、鎌倉時代は、死骸を道に捨てていた。
あるいは、森の中に・・・

江戸時代になり、檀家制の元で、仏教が、葬式を請け負うことになる。

古事記全体を通して、最も印象深いのは、やまと・たけるの場合で、周知のとおり、白鳥と化して飛び去る。
亀井

このときの「天」はまた「海」に通じていたのかもしれない。大海原の水平線では、天と海は一つになってみえるところから、古代人は双方の言葉を同じ意味に使うことがあった。その水平線へ消えてゆく一羽の白鳥という幻想は、死後の行方について抱いた古代人の、最も美しい信仰と言っていいのではなかろうか。
亀井

天も海も、アマと読む。
共に、同じ意味というのが、興味深い。

結局、死を隠れると表現するように、自然の中に、隠れることを言う。

死骸は、もうモノの一つである。

それよりも、肉体から離れた魂の、行方を求めた。
つまり、完全に魂の存在は、確固として、存在していたのである。

しかし、一つ不思議なことがある。
古事記の中に登場する、多くの神々の、また、登場人物の像というものが、一つも無いということである。

その疑問は、数多くの仏像が造られたことが事実であり、それは、造形美術として、今なお、拝む対象、また、美術的価値を持って、存在しているということである。

何故、神像などが、造られなかったのか・・・

古事記の成立した元明朝は、白鳳から天平へ移る仏像の最盛期にあたる。そうならばそれに刺激されて、仏像と併行して神像がおびただしく制作されてもよかった筈だと思うが、いわゆる「神像石」以外には存在しない。
亀井

それは、神々は、拝む対象でも、崇拝する対象でもなく、共に存在するものであったと、考える。

それが、祭りである。
その祭りの際に、神呼びを行い、共に歌い、踊り、食すのである。
そして、終わると、元にお戻り頂く。

人間に遠い、存在ではなかった。

だが、一つだけ、神像に代わるものがあった。
それは、天照大神の鏡である。
それは、剣と玉と共に、古代で最も尊重されたものである。

天孫降臨の際に、天照が、これを私と思い、この宝鏡を見ることは、まさに私を見るが如くである、と述べる。

はじめて鏡をみたときの古代人の心の中には、自己発見の驚きとともに、それを持っている人の魂が宿るという信仰があったのであろう。「鏡」は「像」と同一視されていたこと・・
鏡における魂の存在を強く信じていたところから、神像制作をかえりみなかったともいえるだろうか。
亀井

それらは、大陸から伝来したものである。
それが、古事記、日本書紀に、高天原から云々とは、まさに、神話である。

それらは、後に、天皇の存在を証明する、三種の神器となるものである。
その神話を元に、今も尚、天皇の存在証明となっているというのが、驚嘆することである。

神武建国から、今年は、2674年である。
posted by 天山 at 05:23| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月07日

整体

整体

整体とは、何か。
体を整えることである。
だが、体とは、何か。

体とは、肉体のみを言うのではない。
肉体にまつわる、すべてを総称して、体という。

そして、体は、一つの器であるという、事実。

更に、体には、精神が宿る。生まれる。
精神とは、言葉の世界のことである。
また、更に、体は、心が伴う。

心には、魂が、伴う。

整体とは、それらを総称する、体を整えるという意味で、成り立つ。

整体は、中国式ということから、始まったようだが・・・
中国式は、すべて、道教の影響による。
その道教も、様々に、存在する。

だが、道教について、語る暇を持たない。

私の整体は、私の整体であり、それを神武流と名付ける。

体と、精神と、心と、魂を扱うのである。

だが、術としては、整体法でいい。
技と言っても、いい。
治療するのではない。

病と同じく、私が整体をすることで、不調な人を治すという考えは無い。
不調な人が、自らを癒すのである。

それでは、まず、整体の基本の基本は、脳である。
体は、脳とあまりにも、密接になっている。
普段は気づかないほどに。

体の歪みは、脳が作るのである。
だから、脳を整えなければならない。

それでは、脳を整えるには・・・
体を整えて、脳に、正しい体調を教えるのである。

体の不調和は、およそ、9歳、10歳頃から、はじまる。
それ以前は、脳波がシーター波を出して、自然治癒力を保つのである。
更に、その心も、健全で、生きることが楽しい。

だが、次第に、教育、習慣、環境、そして、強制により、体に不調和と、歪みが生じるのである。

その歪みは、骨をカバーしている、筋肉から起こる。
勿論、精神、心による、歪みもある。

筋肉は、糸のような筋で出来ている。
その束が、筋肉である。

その筋肉が、歪むと、骨に影響を与える。
そして、それが、常態化する。
その際に、脳も、それを受け入れて、それをインプットしてしまう。

同じ繰り返しをしていると、自然に、体が動くように、脳に、そのような指令が行き、そして、脳が、それを善しとして、以後、体に関与する。

不調和ならば、その通りに、脳は、覚える。
その脳を変えることが出来なければ、いくら、方法を取っても詮無いことになる。

脳が、これで良しと決めたら、体もそれに従うのである。

体を整えるということは、実は、脳を解放する、或いは、快方することである。

そして、面白いことに、体は、すべてが結び付いている。
単独にあるものは、何一つ無い。

つまり、体のどの部分も、体のすべてに結び付いているということである。
だから、反射区といわれる場所が、足裏や、掌にまで存在する。

漢方では、経絡と呼ばれる、流れがあるが、実際に、それは目に見えないものである。しかし、経絡と言わなくても、体は、すべてつながっているのだ。

指先まで、体のすべてと、つながる。
そして、それは、血液と、筋肉により、つながっている。

血流とは、体の中をすべて巡る流れであり、筋肉も皆、結び付いて、一番遠い場所でも、それは、即、筋肉を通して、反応する。

整体とは、それを根拠にして、不調和を調和に変容することを言う。
だが、不調和を調和だと、信じる人には、手の施しようが無い。

何が、調和して、何が、不調和なのかまで、忘れてしまうのが、人間である。

だから、体が、本当に不調和により、不自由になって、はじめて、おかしいと、気づく。

肩が痛い・・・
それには、様々な原因がある。
外科的原因、内科的原因、そして、筋肉による原因、精神的原因、心的原因、あるいは、魂までに至る、因縁による原因などである。

五十肩だと思っていた人が、ようやく、辛くなり、病院に行き、レントゲン検査で、筋肉が切れていたことが判明した。
もし、五十肩だと、信じていて、何もしなければ、そのまま、筋肉が切れたまま、死ぬ。

整体は、体に関することには、何に関しても、学ぶことが終わらないと言う道である。

精神科医も、名医になると、患者が診察室に入って来た、そのすべてを鑑みて、判断することが出来る。
勿論、他の医療の名医も、そうだろう。

医者も、見当をつけるのである。

その見当を放棄して、検査に頼るようになったのが、今の時代である。

顔色を見て、触診して・・・
血色を見て、更には、血色の奥にある、気流を観るこれが、整体には、必要になる。

相学とは、手相、人相、骨相を観ることだが・・・
整体も同じである。

気流とは、体から出る、微量な遠赤外線である。
オーラとも呼ばれる。

気流が無くなると、死ぬ。
それが、肉体と霊、魂と、つながっていた痕跡なのである。

日本では、霊魂と言うが、霊は、魂によって、支えられている。
その光が、気流である。

ただし、その気流にも、段階がある。

血色があり、気流があり、霊流がある。
霊流を観るには、特別な感覚を要する。

はじめは、掌から出る、気流を観る訓練からはじまる。

気功といわれる術とは、違うものである。
特別な行をして、得るものではない。

人間の体を扱うと、自然に、身についてくるものである。
それが、訓練である。

特別な訓練を要するものを、一応、否定しておく。
それは、別世界のものである。
posted by 天山 at 06:07| 整体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月08日

整体2

体についてを、詳しく分析する。

その構成システムは、大きく分けて、内臓や四肢のように、一定の部位に局在している、器官と、それらを統合する形で働く、システム、つまり、系に分けることが出来る。

系の代表的なものは、神経系と、血管系である。
それらは、全身に広がるネットワークとして、局在する各器官の働きを一つにまとめる役割を果たす。

この統合システムとしては、分泌系、免疫系、体液系などがある。
そして、整体に必要な、感覚を司る、皮膚である。
皮膚は、全身の働きを一つにまとめている、様々な統合システムの中でも、最大のものである。

整体は、この皮膚感覚を十分に認識することから、はじまる。

さて、神経系の中枢は、脳である。
そのネットワークの末端は、眼、耳のような感覚器官、運動器官として、四肢、及び、内臓器官、肺、心臓、胃腸等に達している。

それらの、末端にある、受容器により、外界及び、体内各部分の状態を認識し、それを中枢の脳に知らせる。

だから、脳が、重大なのである。
しかし、その情報が脳に達せず、つまり、それが疎外されることもある。

脳が気づかないという、状態に陥る。
これは、整体にとっては、重大なことになる。

何故なら、脳が、体内の状況に対応するための指令を出すのだから、それが、機能しなくなるということになる。

特に、神経系の場合は、医療による、検査が必要になる。

神経系の障害に対して、整体は、無力ではないが、特別な能力を必要とする。

次に、血管系のネットワークは、肺と心臓を中枢にして、全身の各部分の諸器官に達して、再び、中心に戻る血液の流れの運搬路である。

血液は、肺から酸素を取り入れ、また、胃腸から消化、吸収した様々な栄養分を全身の各部分に送り、体の働きを維持する。

神経系は、情報伝達であり、血管系は、生活物資を送るシステムと言ってよい。

東洋医学では、「気血」の運動として、認識する場合もある。
つまり、血管系、体液系の機能の重視である。

経絡という、考え方は、神経系と血管系を統合する、高次のネットワーク・システムということになるだろう。

そして、その経絡系は、皮膚と体液系の関係が深い。

皮膚感覚は、整体にとって、実に重要なことが解る。
それは、内臓や四肢だけではなく、神経系その他のネットワーク・システムを、更にまとめる、統合機能を果たしているからだ。

ちなみに、皮膚をただ、刺激するという、治療法もある。
それは、叩く、抓る、というような、実に単純なものである。

皮膚にも、凝り、張りがあり、それを通して、各器官に刺激を与えるという、考え方である。

整体とは、体を整えること、という視点から、神経系を見る。

神経は、中枢神経である、脳と脊髄、そして、中枢神経から分れて、各器官に分布する、末梢神経の二つに大別される。

末梢神経の代表的なものは、大脳皮質につながる、感覚神経と、運動神経、そして、皮質下の中枢である、脳幹、それは脳と脊髄の連絡部である、そこから出ている、自律神経の三つがある。

感覚神経と、運動神経は、それぞれ、感覚器官と、運動器官という、体の動物的機能を司る。
自律神経は、内臓の機能、それは、植物的機能である、呼吸、循環、栄養、排泄、生殖等を、コントロールする。

整体は、この自律神経に関して、特に強く働くものである。

内臓が、自律神経であること、それが重要である。

自律神経失調というのは、内臓機能の低下なのだ。
また、内臓に対する刺激は、自律神経を刺激することと、同じことになる。

更に、整体の場合は、その内臓機能に与える影響を、体の末端に、その反射区を見ることが出来る。

例えば、足裏である。
内臓に対する、その反射区が、足裏から刺激できるという、特技を持つ。

更に、膝下、太もも、そして、腕と、手である。
それらが、すべて、内臓に結び付いている。

内臓疾患の場合は、内臓そのものより、反射区に対して、刺激を与え、内臓を遠まわしに、刺激する。

それにより、自律神経系の、呼吸、循環、栄養、その他にも、影響を与えることが出来る。

ここで、知識としては、体の情報システムとしてみる場合、三つのシステムに分けることが出来る。

体と外界の関係する情報システムである。
環境からくる刺激を受け取る、感覚器官と、外に働きかける、運動器官により、一種の情報回路が作られる。

感覚器官は、外から来る感覚的刺激を受け取り、これを感覚神経を通る、情報入力に変えて、脳へ送る。

これを求心性の回路とすれば、運動器官である、手足は、遠心性の回路とみることが出来る。

脳が、末端から来る感覚的刺激を受け取ると、大脳皮質にある、様々な感覚中枢が、これに反応して、前頭葉の部分で、情報を総合し、判断を下す。
これにより、外界の状況が認識されると、前頭葉から、四肢の筋肉をコントロールする運動神経を通じて、遠心性の情報入力が行なわれる。

それは、つまり、感覚神経は外界からの刺激に対して、受動的に働き、運動神経は、能動的に働くということであり、体は、外界の状況に対応した、行動を取ることが出来る。

これが、整体の主たる、理念と基本である。

体の末端からの刺激、つまり、整体を通して、脳に刺激を与える。
それにより、脳が反応し、判断して、歪みを矯正する。

あるいは、筋肉の凝り、張りを緩和させる。
そして、大事なことは、整った状態を覚えるということである。

人は成長するに従い、次第に、体に癖をつける。
その癖により、筋肉が凝り、張り、そして、骨の歪みを作る。

整体は、骨に関して、直接的関与はしないが、間接的に、それぞれの反射区を刺激することで、骨の矯正を脳に促がす行為となる。

最も、基本的な療術である。

posted by 天山 at 05:26| 整体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月09日

整体3

体の情報システムの第二は、体の状態そのものについての、内部情報装置である。

これが、整体に実に重要なことだ。

これは、二つから成り立つ。
一つは、運動に関する、装置である。

運動神経は、大脳皮質から末端の運動器官である、四肢、つまり手足に対して、指令を送る回路である。
運動器官である、手足の筋肉や腱などには、運動感覚神経が備わり、手足の状態を、中枢の脳に知らせる。
この場合は、運動神経が遠心性回路となり、運動感覚神経が、求心性回路となる。

スポーツ、技芸などの人たちは、この回路の能力が発達している。
手足に対する情報が、運動感覚神経により、敏感に脳の中枢まで伝わり、中枢から、直ちに、その状態に対応する指令が運動神経を通して、末端の手足まで送り返されるからである。

この回路は、体の運動感覚に関する回路であり、第一の外界感覚――運動回路を支えている、体内の情報メカニズムであるといえる。

もう一つは、内臓感覚回路である。
これを整体では、特に重要視する。

これは、内臓の状態についての情報を脳へ送っているが、皮質における対応領域が小さく、普通の状態では、運動感覚のように、局所化して感じることが出来ない。

健康な状態の際には、腹腔の感じは、肺、心臓、胃などといった各部分の区別を、ハッキリとは、感じ分けることが出来ないのである。

痛みが起こったときに、はじめてその場所が解るというもの。

心理的に言えば、運動感覚が自我意識の周辺部とすると、内臓感覚は、その背後にある、漠然とした、暗い意識の底辺部分となる。

内臓感覚神経は、求心性の回路で、末端の器官、つまり、内臓の状態についての情報を脳の、中枢に送っている。

皮質は、これらの情報を総合して、体というものの、内部状況を、絶えずチェックしているといえる。

体性内部感覚は、皮膚感覚、深部感覚、平衝感覚、及び、内臓感覚である。
そして、四肢の運動感覚を合わせた全体が、全身内部感覚と呼ばれる。

この、体性内部感覚こそ、整体治療の最大のポイントとなる。
特に、皮膚感覚、内臓感覚である。

そこを刺激することで、脳の中枢に、新しい情報を与えるのである。
実践では、皮膚感覚を主にし、内臓感覚は、従になるが・・・
共に、重要な感覚である。

もう少し、突っ込んでみれば、体の運動は、記憶のメカニズムと深い関係を持つ。
要するに、体が、覚えているという、言い方をするが・・・

心理学としてみれば、判断する意識の底に、一種の自動装置があり、過去のデーターを蓄積して、失敗したデーターを調べ、意識に送り、成功するように、指令する。
この繰り返しが、練習ということになる。

ただし、未だ、不明な点があるのが、第二の感覚である。

それは、記憶という心理作用と、体の生理的メカニズムの関係が、明確になっていないからである。

心理学でも、記憶に対する考え方が、多数存在する。

意識といっても、その意識の層が、幅広いのである。

特に、不調和を感じる場合は、それが、記憶によるものなのか、或いは、生理的なものなのかという、判断である。

単に、肩が凝るという場合は、使い過ぎ、仕事関係が、そのようなものなどいう、簡単なものであれば、揉み解して、解決することもあるが・・・
そんな、単純なものではないのが、人間の体である。

体質的に、という言葉で、処理されもするが、解決にはならないのである。

第二の回路は、一種の自動制御システムと言うことが出来る。
体には、不思議な力があるということ。

実践の現場で、施術しつつ、客が過去の話、或いは、悩み事などを話したりする。そこに、問題が隠されていることが、多々ある。

整体は、単なる、整体に留まらないのは、それである。
心理的カウンセリングの要素も、多分に持つのである。

感情の問題は、次ぎに説明する、自律神経に関する回路で、詳しく説明するが・・・

体は、精神と心にも、影響を与えるという、事実である。

また、精神や心が、病むことにより、体に不調和が生じるということも、多々ある。
そして、そちらの方が、多い現状だと、いえる。

問題は、体のみでもなく、精神、心のみでもない。
全体なのである。
その全体というものを、どのように把握するのかが、問題である。

その全体を把握するためには、部分の理解が必要になる。

内臓感覚は、暗い記憶の内にある。
私は、その物言わぬ内臓こそ、体の大本だと、考えている。

それは、内臓が不調和で、体を歪めている。
凝りを作る。張りを作るということ。

更には、精神的疾患までも、生み出すものという、意識がある。

もっと、突き詰めて行けば、心の闇、それは、因縁などの問題にも、係わってくるものだ。
因縁とは、遺伝とも言える。
家系の遺伝、そして、その人の霊的遺伝ということにもなる。

心は、霊により、指令を受ける。
そして、心は、脳にも、指令を出す。

脳が先で・・・
ところが、心が先なのである。

これは、多分に心霊主義、或いは、霊学と結び付いてくることになる。

posted by 天山 at 06:09| 整体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月10日

霊学167

自我は魂の中に生きている。「私」の最高の表現が意識魂によるとしても、この「私」は意識魂から輝き出て、魂全体を充たし、そして魂を通して、その作用を体にまで及ぼす。自我の中には霊が生きている。霊は自我の中を照らし、自我を外皮として、その中で生きる。自我が体と魂を外皮としてその中で生きるように。霊は内から外へ向けて、鉱物界は外から内へ向けて、自我を形成する。一個の「私」を形成し、その「私」の中で生きる霊は、人間の「私」もしくは「自我」として現れるから、「霊我」と呼ばれる。
シュタイナー

それでは、霊我と、意識魂の区別は・・・
意識魂は、あらゆる共感、反感から独立した、自分自身によって存在する真理に係わる。
霊我は、自分の中にこの同じ真理を担っている。
その真理は、「私」によって取り上げられ、「私」の中に包み込まれている。

「私」によって、真理は個体化され、独立した人間の本性になる。
シュタイナー

そして、永遠の真理が、独立し、「私」と結び付いたひとつの本性になることにより、「私」自身が霊我となって永遠性を獲得する、ということになる。

霊我となり、永遠性を獲得する・・・
何とも、説明がつかない。

物体界の顕現が感覚と呼ばれるのと同じ意味で、霊界の顕現は直観と呼ばれる。どんな単純な思考内容もすでに直観を含んでいる。
シュタイナー

ここで、直観である。
霊界を持ち出さずとも、哲学は、反省と直観なのである。

だが、
肉眼がなければ色彩感覚も存在しないように、霊我の高次の思考内容が存在しないと、直観は生じ得ない。・・・直観は霊的存在を産み出すのではなく、ただそれについての情報を提供するだけなのである。
シュタイナー
と、言うことになる。

次ぎは、霊人という言葉が、出てくる。

霊的内容は人間の永遠の養分である。人間は物質界から生まれ、真と善の永遠の法則によって霊から生まれる。人間は、独立した存在として物質界から切り離されているように、彼の外にある霊界から切り離されている。この独立した霊的人間存在は「霊人」と呼ばれる。
シュタイナー

そこで、シュタイナーが区分けしたものを見る。
A―――肉体
B―――エーテル体もしくは生命体
C―――魂体
D―――感覚魂
E―――悟性魂
F―――意識魂
G―――霊我
H―――生命霊
I―――霊人

現界の人間は、七つの部分より成る。
1―――肉体
2―――エーテル体もしくは生命体
3―――感覚する魂体
4―――悟性魂
5―――霊に充たされた意識魂
6―――生命霊
7―――霊人
以上である。

つまり、魂体と、感覚魂、意識魂と、霊我は、現界では、一緒だということ。

アストラル体とは、魂体と感覚魂を一緒にした名称である。

アストラル体の中には、人間の衝動、欲望、情欲が感情内容として、働く。
更に、感覚的知覚も、働く。

また、まだ詳しい説明をしているが・・・

そして、更に、人間を区別している。

1―――肉体
2―――生命体
3―――アストラル体
4―――魂の核としての自我(私)
5―――変化したアストラル体としての霊我
6―――変化した生命体としての生命霊
7―――変化した肉体としての霊人

批判はしないと、言ったが・・・
シュタイナー以前の、あらゆる、思想、哲学、宗教・・・その他が、係わっている。

神智学を名乗るのであるから、当然と言えば、当然だが・・・
シュタイナー学である。

霊界による、物の見方・・・
一体、誰がそれを判定するのか、解らない。
そのまま、受け入れるか、拒否するか。

グノーシス主義なども、色々と霊について、語る。
その真理と、善、そして神の存在である。

シュタイナーは、高次の次元を語るが、神とは、出て来ない。
その点では、神という存在も、霊であるから、当然であるが。

神々と言う方が正しい。
つまり、霊の世界であるからだ。

それを霊界と言うならば、霊界は、無限とも言える世界である。
それぞれの、霊界の世界を俯瞰して、それぞれに、霊界の所存がある。
シュタイナーも、その一人である。

次ぎは、霊の再生と運命、を読むことにする。
posted by 天山 at 05:17| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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