2014年06月30日

神仏は妄想である。486

キリスト教徒の思想家は、ユダヤ人の聖書それ自体が、神がユダヤの民を見捨てたことを証明していると主張するかもしれない。旧約聖書の預言者は、繰り返し、古代イスラエル人が、神の意思と法を犯したために、神が彼らに裁きを下していると警告している。アモス、ホセアあるいはイザヤといった預言者は、自分の民が選んだ生き方に怒った神が、彼らを見放したと言っている。イエスの初期の信者は、この見解に拘泥し、原則論に仕立て上げた。冷酷無比で頑冥無礼なユダヤ人は、彼ら自身のメシアを拒否するまでに堕落した。神の堪忍袋の緒が切れた。ユダヤ人は、もはや神の選ばれし民などではなく、イエスの信者がそれに取って代わったのだ。
アーマン

上記が、キリスト教の結論である。

つまり、キリスト教とは、反ユダヤ主義なのである。

しかし、情熱的なイエスのユダヤ教が、何故、激烈な反ユダヤ主義宗教に、変わったのか・・・

その両者が、亀裂したのは、キリスト教徒が、イエスをメシアだと、主張した時から、始まるのである。

そして、メシアは、人々の原罪のために、苦しみ、死ぬことで、人々が、神と正しい関係を築く。
ユダヤの律法は、救済の役には立たない。
ユダヤ人は、イエスをメシアだと、信じなければならない。

そうでなければ、神に拒絶される。

敬虔なユダヤ教徒、そして、その他の人間は、神に呪われる。

全くもって、どうしようもない。
手の付けられない、キリスト教である。

新約聖書の中にも、反ユダヤ的考え方が、見出せる。
特に、パウロである。
そして、ヨハネによる福音書である。

ユダヤ人がイエスを拒み、殺害した場面が、生き生きと描かれる。
ヨハネは、更に、ユダヤ人が、神の子ではなく、悪魔の申し子とまで、書くのである。

二世紀半ばになると、このような考え方が、より痛烈に、起こる。

殉教者ユスティノス、テルトゥリアヌスといった、著述家たちは、ユダヤ人とユダヤ教に、真っ向から非難する論文を書いた。

そこには、
ユダヤ人が、己の宗教や律法の真義を間違って解釈し、イエスについて語られた預言を受け入れず、神が遣わした自分たちのメシアをはねつけ、それゆえ神自体を拒絶しているのだと論じた。ユスティノスによれば、割礼による印は、ユダヤ人を神の民として、他の人々から区別するものではない。それは、迫害されるにふさわしい連中を指し示す刻印なのだ。このような反ユダヤ的論文は、二世紀以降、長きにわたり書き継がれ、何世紀もの間、キリスト教徒の読者にとっては、聞き飽きるほど身近なものだった。
アーマン
と、なる。

この種の、反ユダヤ思想は、キリスト教が誕生するまで、ローマ、ギリシャ、他のいかなる地域にも、存在しなかった。
つまり、それは、キリスト教徒の発明なのだ。

その、キリスト教徒が、多数派になった時、どのようなことが、起きるか・・・
更に、白人主義と、結び付いて・・・
ちなみに、ユダヤ人は、アジア人である。

四世紀初頭、ローマ皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教に改宗すると、キリスト教徒は、ユダヤ教徒の数を、遥かに上回り、キリスト教は、流行にさえなった。

そして、テオドシウス帝が、ローマの国教に定めた。

このような大転換は、ユダヤ教徒とキリスト教徒の関係に、決定的な役割を果たした。初期教会の時代以来、言葉によって表明されてきたユダヤ教徒への嫌悪感は、すぐに、行動と結びつくようになった。いまやキリスト教徒になったローマの役人は、先人のレトリックを真に受けた。彼らは、ユダヤ人が文字通り真実の敵であり、イエスを拒んだがゆえに、罰せられなければならない輩だとみなした。
アーマン

更に、四世紀には、帝国の表向きの政策として、ユダヤ人が迫害されることはなかったものの、ローマの属国を統治するクリスチャンの総督といった、権力を掌握していた人々は、そのような政策を無視したり、ユダヤ人の排斥運動を見て見ぬふりをした。シナゴーグが焼かれ、ユダヤ教徒の財産が没収され、彼らは公然と侮辱され、時には暴動の犠牲になった。
アーマン

キリスト教は、それを、どんどんと推し進め、悪意に満ちた、反ユダヤ的宗教と化した。
そして、あの中世である。

身の毛もよだつ、迫害運動へと、連なり、世界を震撼とさせた、大量虐殺を引き起こしたのである。

現代まで連綿と続く反ユダヤ主義が、非キリスト教徒のユダヤ人に対する、キリスト教徒の敵対意識の歴史の延長線上にあることは確かだ。それは、初期教会が生み出した、最も歓迎されざる発明の一つなのである。
アーマン

ここ、ここに、至ると・・・
言葉を失う。

今一度、宗教というものを、考え直すべきである。
どんな、穏健な宗教でも、そこには、必ず付きまとうものがある。
それは、意識である。
その意識は、我は救われる者であり、それ以外の人間は、救われず、迷う者、罪ある者、更には、殺してもいい者となるのである。

世界の、大半の紛争に付きまとうのは、宗教である。
私は、宗教の撲滅を願う。

そして、新しい宗教と言うならば、寛容であり、排他的ではなく、慈悲の思想に溢れ、神仏を、断定しない。
その包容力であり、赦す宗教である。

つまり、様々な形の信仰を認めることが出来る宗教。
それは、日本の神道に似る。
また、日本の天皇の存在に似る、祭祀である。

如何なる、神仏であろうと、一切、問わず、平和を享受、維持出来る、宗教である。

教義、教学、神学・・・
そのような、妄想を持たない宗教。

世界は、そして宗教は、日本に学ぶべきである。



posted by 天山 at 05:30| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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