2014年06月29日

神仏は妄想である。485

イエスにつき従うとはどういうことか、というこのような解釈は、初期キリスト教会における、信仰の核心を巡る論争で、敗北する運命にあった。
アーマン

つまり、初期キリスト教の教義なるものは、敗北したのである。

それでは、どのようになったのか・・・
それは、パウロの思想である。

パウロは、神と正しく向き合うとは、律法など何の役にも立たないと、宣言している。
入信した、異教徒は、ユダヤの律法など、無視していいというのである。

神は、律法や割礼の盟約ではなく、イエスの死がもたらした贈物として、救済するという。

マタイとは、真っ向から、対立するのである。

そして、イエス本人は、律法を守らなければならないと、言っている。

一体、どういうことだ。

一部の学者が言うように、パウロにとって、イエスの宗教は、すでにイエスにまつわる宗教だった(私が指摘したように、パウロは、イエスの再解釈を試みたわけではなく、それまでの解釈を受け継いだだけであったが)。
アーマン

そして、更に、後世のキリスト教徒は、パウロの教えを、更に推し進めた。
パウロの教えを、絶対的なものとした、マルキオン。

律法は、福音と無関係である。

律法は、ユダヤの神が、ユダヤの民に与えたものであり、それを守る者は、地獄に落ちるだけである。
何とも、物騒である。

更には、旧約の怒りの神から、救い出してくれるのが、イエスの神である。
つまり、神は、二人いたのである。

律法を定めた神は、イエスの神とは、別物である。

そして、旧約聖書は、ユダヤの民のものとした。
だが、同時代のキリスト教思想家は、正反対の立場を取る者もいた。
それが、バルナバの手紙である。

バナルバは、旧約聖書は、ユダヤ教ではなく、キリスト教の書物であると言う。
ユダヤ人は、その教えの解釈を誤り、過去もそうであり、彼らは、冷酷で、無知、頑冥で、反抗的な連中で、モーゼの時代から、変わることがなかった。

ユダヤ人は、モーゼが十戒を破った瞬間に、神との盟約は、終わった。

神が、再び彼らと契約を結ぼうとはしなかった。神が、新しい契約を結んだのは、イエスの信者との間である。

これは、両者共に、反ユダヤ主義であり、後々の、ユダヤ人迫害の基礎となった。

それが、ナチスのユダヤ人大虐殺までに、至る。

バルナバに関しては、まだ多くのことがあるが・・・
以下、省略する。
私にすれば、こじ付けとも思える、考え方である。

兎に角、キリスト教徒の著述家たちは、ユダヤ人が、自分たちの宗教を、全く理解していない。旧約聖書は、キリスト教の正典であると言う。
ユダヤ教から、その正当性を剥奪するような試み。

更に、時代を経ると、反ユダヤ主義は、益々と激しくなった。

西暦70年にエルサレムが、ローマに滅ぼされたのは、メシアを殺した、神の裁きであるという者まで、現れた。

だが、今も、そのようである。
現在も、キリスト教徒は、そのようだと言う。

ユダヤ教から、すべてを、搾取して、宗教と相成ったのが、キリスト教である。

唯一の神も、二人の神も、存在しない。
すべて、人間が、考え出したものである。

こうして、キリスト教の成り立ちを見て行くと、いかに、戦闘的な宗教であるかということが、解る。
西欧人の元は、バイキングである。
それが、キリスト教を創り上げて、戦争を始める。

最初に、戦争を始めたのが、キリスト教であり、今、現在も、戦争を最も、好む宗教である。

イスラムの、テロリストを言う前に、キリスト教の犯し続けてきたことを、思い出すべきである。

イスラムに、最初に攻撃を仕掛けたのも、キリスト教である。

イエスは、ユダヤ人で、ユダヤ教で、隣人愛を説いた。
それは、そのイエスの宣教の付近の、異教徒のことである。
人類の、救いなどを、説いたことは、一度も無い。

それを、人類の救い主とまで、進めた、頑冥な妄想の、キリスト教徒、及び、その宣教師たち。

キリスト教の宣教師たちが、最も罪深いのである。

南米では、一億人以上の虐殺を行い・・・
その他、異教徒の場所では、何の躊躇いも無く、虐殺するという。

旧約聖書の、残虐さを、確かに、キリスト教が、受け継いだ訳である。

更に、イエス・キリストの生まれ変わりという、妄想全開の者、世界に多数。
決して、モーゼの生まれ変わりなど、聞いたことが無い。

蒙昧な宗教から、蒙昧な新しい宗教が、続々と誕生する。
これからも・・・
実に、神仏は妄想である、のだ。



posted by 天山 at 06:17| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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