2014年06月20日

沈黙を破る94

そろそろ、沈黙を破る、を終わる。
本当は、最後の沈黙を破る、という、題だったが・・・

その原稿は、実に多い。
最初からの、沈黙を破る、から、何度も書き続けた。

だが、もう、必要なくなったのである。

カウンターテナー藤岡宣男が、死去して、今年で9年である。
きっかけは、それだった。

それまで、言わなかったことを、書き続けたのである。
だから、そろそろ、終わりにすることにした。

色々な文章を、毎日、大量に書いている。
仕事ではない。
道楽である。

勿論、生活することに、汲々だが・・・
どうせ、今世の、一度の人生である。
前世、輪廻転生というものがあるが・・・
それでも、この時代、そして、この肉体で生きるのは、一度だけである。

色々な人が、色々な考え方を持つことが出来るのも、幸せなことだ。

だが、人に強制する、何ものもないのである。
更に、そういう強制は、全体主義に至る。

私は、これまで生きてきて、一時期は、確かに、これが正しいと、考えたことがあり、それを、人にも、強制したことがある。
だが、一瞬のうちだ。

普遍的なことは、誰が、どうしようと、普遍的なことなので・・・
あえて、云々しなくともいい。

或る人には、神様、仏様でも、或る人には、別のものがある。
それで、いい。

最初から、偏見に満ちると、誤る。

しかし、今まで生きてきた、経験から、色々と判断する。
それが、偏見になる事もあるが・・・

この世に、欲しいものが無い。
つまり、もう、色々と議論する事も無い。

そんなものは、死ねば、終わる。

私に取って、大事なことは、死ぬことである。

どのように、死ぬか・・・
何処で、死ぬか・・・
そして、その準備である。

自然死を望む。
しかし、それが周囲に迷惑をかけるようならば・・・

自然死に近い死に方をしたいと、思う。
例えば、自然断食である。
少し、少しと、食べるものを減らして行く。

そうして、死ぬことにする。

一番は、人に迷惑をかけるというのが、嫌なのだ。

ある時期から、死ぬことを、意識的に考えるようになった。
そして、今日が、死ぬ日・・・
いつも、そのように考えてきた。

救いというものがあるならば、それは、死ぬことであると、考えている。

人生は、実に、苦難と苦悩に満ち溢れている。
勿論、私は、そこまで、呻吟することはないが・・・

馬鹿馬鹿しいから、呻吟することはない。

それでは、沈黙を破る、を、終わる。




posted by 天山 at 05:32| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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