2014年06月14日

霊学163

生殖、生長を通して、生あるものは生なき鉱物から区別される。生あるものは、生あるものから胚種を通して生じる。子孫は生あるものの系列の中で、先祖と結び付いている。鉱物を生じさせる諸力は、その鉱物を構成する素材そのものに働きかけている。
シュタイナー

当然である。
が、あえて、そのように説明する。

生あるものの形態は遺伝によって伝えられる。
シュタイナー

シュタイナーが、あえて、それらを説明するのは、ある時点から、霊学の言い方になるからである。確認しているのである。

或る生物がいかに生長するかは、どのような父母から生じたのか、換言すればどの種に属するのかに依存している。それを構成している素材は絶えず入れ替わが、種は生命のある間は存続し続け、子孫に遺伝される。
シュタイナー

これも、その通りである。
だが、そこから、
この種を形成する力は生命力と名付けられる。
そして、その生命力から得た、身体、及びそれにまつわる、体を、エーテル体、生命体と名付けられる。
と、なる。

しかし、ここで言う、エーテル体は、それ以前の自然科学で言われる、エーテル体とは、違うのである。

その、註には、
非有機的自然の諸法則は有機体内でも結晶体内でも等しく同じ法則である。しかし有機体内には非有機的ではない何かが存在するのである。そして、それが形成する生命であり、この生命の根底にはエーテル体もしくは形成力体が存している。
と、ある。

シュタイナーの、エーテル体は、
すべての植物、動物の中に、物質的形態以外に、生命に充ちた霊姿をも感知する。
と、ある。

それが、エーテル体であり、生命体である。

エーテル体は物質的な素材や力が産み出したものではなく、物質的な素材や力を生あるものに変えるところの独立した現実的本性なのである。
シュタイナー
と、いうことになる。

霊学的に語れば、単なる物体は、たとえば結晶体のように、その形態を無生物の中に内在している物理的形成力を通して得ている。生きた身体はその形態をこの力を通しては得ていない。なぜなら生命が離れ、そしてただ物理的力だけに委ねられた瞬間に、生きた身体はその形態を分解しはじめるから。
シュタイナー

死ぬということである。
死によって、生命が、離れると、分解し始めるのである。

この生命体を見、それを他の存在の中に知覚するためには、目覚めた「霊眼」が必要である。
シュタイナー

この、「霊眼」が、全く、新しい概念として、登場してくる。

論理的根拠から、生命体を容認することは出来るが、色を肉眼で見るように、それを見るには、霊眼をもってしなければならない。

人間のエーテル体のあり方は、思考する霊に対応している点で、動、植物のそれから区別されている。
シュタイナー

人間は、肉体を通して、鉱物界に属しているように、エーテル体を通して、生命界に属している。

だから、死後、肉体は、鉱物界へ、エーテル体は、生命界に解消される。

「体」とは存在に何らかの種類の「形姿」、「形態」を与えるものをいう。「体」を物体ととりちがえてはならない。本書でいう体は、魂や霊として形成されるものにも用いられている。
シュタイナー

だが、生命体は、人間にとって、まだ、外的なものである。
外界と呼ぶものを、何処まで辿っても、感覚に出会うことはない。

更に、そこからの説明が続く。

生命体の観察が出来るなら、物理的な脳の働きが、同時に生命の働きであることを、知覚する。
しかし、光線を感じた人の青色の知覚を、このような仕方で、見出すことは出来ない。

それはその人の魂の内部で、はじめて生じるものである。
だから、光線を受け取った存在が、肉体、エーテル体だけしかなければ、この知覚は、存在しえない。
つまり、魂が、必要なのである。

更に、それを、知覚する働きの、源泉を、感覚魂、と呼ぶ。

感覚魂の知覚に対しても、エーテル体で説明したと同じようになる。

肉体の諸器官は感覚魂を見ることができない。生命を生命として知覚できる器官もまだそれを見ることができない。しかしこの器官によってエーテル体が知覚できるように、それよりもさらに高次の器官によって、感覚の内的世界も特殊な超感覚的知覚内容になることができる。そのとき人間は物質界、生命界の諸印象を感知するのみならず、感覚体験をも見る。
シュタイナー

ここで、見る、というのは、超感覚的世界の、言い方である。

それは、我と他では違う。
他の人間の感覚世界は、ただ見者だけが、開かれた「霊眼」をもって、見ることができるのである。

見者でない人間は感覚世界を外には現れない自分の魂の「内なる」体験としてしか知らない。開かれた「霊眼」をもって見れば、その他の場合には他の人間の「内部で」だけ生きているものが、外なる霊的光景の前面に輝き出る。
シュタイナー

更に、
見者は、他の人間の感覚世界の内容と同じものを体験するのではない。他の人間は感覚内容を自分の内的視点から体験する。見者は感覚世界のひとつの表明、ひとつの表現を知覚するのである。
シュタイナー

何とも、回りくどい、言い方であるが・・・
その霊界に、辿り着くまでは、批判を控える。



posted by 天山 at 06:07| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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