2014年06月13日

霊学162

人間の魂の本性は固有の内面世界であり、この点でその体的本性から区別される。この固有の世界はもっとも単純な感覚的知覚に注意を向けるだけで、ただちに立ち現れてくる。他の人間も彼自身とまったく同じ仕方でこのような単純な感覚的知覚を体験をするものか否か、誰もはじめはそのことを知ることができない。色盲は事物をさまざまな灰色のニュアンスの中でしか見ない。
シュタイナー

だが、他人の知覚を、私は、知ることは出来ないのである。

シュタイナーは、ここで、感覚的知覚は、魂的内容に属することを、言う。

そして、感覚的知覚に続いて、感情が加わる。
それは、快、不快という感覚を得る。

魂の内的いとなみの、現われだ。

人間は感情の中で、外から彼に働きかけてくる世界に対して、第二の世界を創り加える。さらに第三のもの、すなわち意志がこれに加わる。意志によって、人間はふたたび外界に作用を及ぼす。そしてそのことによって、彼は自分の内的体質を外界に刻印づける。
シュタイナー

魂は、意志行為を通して、外へ流出するのである。

魂は、人間固有の世界として、外界に対置されている。

体的本性は、魂的存在の低層になる、ということだ。

このようにして、徹底的に、シュタイナーは、語り継いでいる。
これは、哲学である。
哲学の方法を用いて、霊学、神智学を語るのだ。

さて、これから、人間は、思考するという。
まさに、哲学である。

知覚内容を思考することで、彼は事物についての認識を獲得する。
シュタイナー

当然である。

ただし、正しい思考に導かれているときのみ・・・
人間としてふさわしい、仕方で、課題が達成出来ることを知ると、言う。

魂はそれ故、二面の必然性に向かい合っている。すなわち体の諸法則によって自然必然性に規定されているとともに、正しい思考に導く諸法則の必然性にも進んで自分を従わせている。
シュタイナー

ここでの、正しいとは、何か・・・

みずから自由な思考の法則にも従っている、らしい。

そりにより、人間は、体が属している秩序より、高次の秩序に、つまり、霊的秩序に属するものとなる。

体が魂から区別されるように、魂もまた霊から区別される。
シュタイナー

体内で作用する、炭素、水素、窒素、酸素の分子だけで語る限り、人は魂に注意を向けていないと、言う。
そこから、甘味、快感を持つ近く内容が現れるとき、はじめて、開始される。

同様に、自分をまったく外界と身体生活とに委ねているときの魂の諸体験だけを見ている限り、人は霊に注意を向けていない。体が魂の基礎であるとすれば、魂はむしろ霊の基礎なのである。
シュタイナー

さて、次ぎは、思考の意識を明瞭にするということである。

脳は、思考の身体的器官である。

正常に発達した脳の所有者だけに色が見えるように、ふさわしい発達をとげた脳の所有者だけに、思考する力が与えられている。
シュタイナー

これもまた、当然である。

人間の脳の構造は。脳の機能との関係において考察されるとき、はじめて理解されるようになる。その機能とは思考する霊の身体的基礎となることである。
シュタイナー

極めて、正確にシュタイナーを紹介するため、引用が多いが・・・

或る人々は思考を過小評価し、「内的な感情生活」、「感受性」をより高くおこうとする。「冷たい思考」ではなく感情の熱さ、感受性の生ま生ましい力を通してこそ、人は高次の認識にまで高められるのだ、とさえいわれている。このように語る人々は、透徹した思考が感情を鈍感にするのを忘れている。
シュタイナー

しかし、そうではない。

高次の世界と係わる純粋で水晶のように透明な思考内容が呼び起こす気分に比較できるような感情や感激など、存在しない。最高の感情というものは「おのずと」現れてくる感情なのではなく、精力的な思考作業において獲得される感情なのである。
シュタイナー

精力的な思考作業により、獲得される、感情・・・
それは、「おのずと」現れてくるものではない。

日本人には、馴染みの薄い、感覚である。
心理学でいうところの、感情とも違う。

この、精力的な感情を辿るために、シュタイナーは、精力的に説明しているのだろうか。

人間の思考は、鉱物界にも存在する、素材と力から、人体中で、思考が十分出来るように、構成され、結合されている。
それを、シュタイナーは、肉体と、呼ぶ。

新しい、物事の解き方を考え出したといえる。


posted by 天山 at 08:25| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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