2014年06月06日

神仏は妄想である。482

イエスの時代、多くのユダヤ人は、今日のユダヤ人の大半がそうであるように、未来のメシアについて、あまり考えていなかっただろう。しかし、メシアを待ち望むユダヤ人は、ヘブライ語聖書の「詩篇」二編一節から九節のような、メシアに関する記述に記されている約束を、神が果たすと信じていた。
アーマン

その箇所である。

なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は約束して、
主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
「我らは、伽をはずし
縄を切って投げ捨てよう」と。
天を玉座とする方は笑い
主は彼らを嘲り
憤って、恐怖に落とし
怒って、彼らに宣言される。
「聖なる山シオンで
わたしは自ら、王を即位させた。」

主の定められたところに従ってわたしは述べよう。
主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子
今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち
陶工が器を砕くように砕く。」

明らかに期待されていたのは、ダビデの系譜に連なり、ダビデの後継者と同じく神の子である、卓越した、力強い王の出現だった。
アーマン

それは、兎も角として、いつも思うことは、怒り、打ち砕くなどという、記述である。何処にも、平和的な書き方が無いのである。
そして、領土である。いつも、領土を与える、云々。

これが、ユダヤ、イスラエルの最大の問題だったことが、解る。

さて、当時のユダヤ人は、メシアを力強い、王として、認識していたということだ。

つまり、
イエスが生きていた時代、多くのユダヤ人が期待していたのは、力漲る、軍人たる王であるメシアだった。
アーマン

と、すれば、イエスは、メシアなどではない。
全く、的外れなのである。

しかし、イスラエルの復興者に対し、違う期待を抱いていたユダヤ人もいた。特に、イエスや彼の信者も受け継いでいた黙示的思想的伝統では、将来の救世主は、単なる地上の王ではないと考えられていた場合もあった。彼は、圧倒的な力で、悪の勢力を駆逐するために神から遣わされた、地上の宇宙的審判者だった。
アーマン

そして、この神聖な人物は、コンテクストによって、呼び名が変わる。
時には、人の子、と呼ばれることもあった。

イエスも、黙示的思想的伝統を受け継いでいたといえる。
しかし、それは、奇想天外な、妄想である。

そして、何一つとして、預言が成就したことは無い。
その、暴力的な預言の数々である。

砂漠の宗教らしい、野蛮さである。

しかし、すべてのユダヤ人の期待には、共通点もあった。彼らは、来るべき時代のメシアは、威厳と力強さを兼ね備え、その絶対的な力で、神の敵を打ち負かし、神の民や他の国々を、厳格に統治する者であることを望んでいた。
アーマン

つまり、願望である。
その、願望を、預言として、書き記した。

民族の願望を、聖書という書にまとめたと、いえる。
ある意味では、気の毒な民族である。

一度築いた、ユダヤ王国・・・
それが、分離し、更に、崩壊した。
それ以後、そのような王国は、成り立たなかった。
それのみか、いつも、何処かの国の、属国として、成り立っていたのである。

主なる神は・・・
存在しなかった。
それでも、それを信じるしか、術が無い。
それが、ユダヤ民族の定めである。

そこから、人類の救い主が現れるとは・・・
全く、神仏は妄想である、と言わざるを得ない。

であるから・・・
イエスは、全く論外だった。

何せ、ユダヤ人にも、知られていなかった存在である。
ほんの一部の地域のみで、説教を繰り返していた。
それも、黙示的な・・・

そして、ユダヤ教の体制批判と、ローマ帝国にも、逆らうような体制批判である。
それでは、殺される。

磔にされたイエスを、メシアだとは、誰も、認めることが出来ないのである。

ユダヤの律法に背き、反体制分子として磔刑に処せられた男だ。イエスは、ローマ人を追い払うことができず、逆に虫けらのように叩き潰されてしまった。大方のユダヤ人にとって、そんなイエスをメシアと呼ぶことは、笑止千万であり、ほとんど(あるいは実際に)、神への冒涜以外の何ものでもなかった。
アーマン

ところが、それに目をつけたのが、キリスト教を、創り上げた者たちだった。



posted by 天山 at 05:58| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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