2014年06月05日

神仏は妄想である。481

キリスト教成立の謎を解く
バート・D・アーマン著
上記を手手掛かりにして、書き続けてきた。

その聖書と、福音書に関して・・・
滅茶苦茶な矛盾の中で、更に、一つの民族宗教、ユダヤ教から出た、新しい宗教というもの。作り上げられたキリスト教を見てきた。
まだ、終わらないが・・・

だが、私は、知る。
それでも、信じる人たちがいる。
事実を提示しても、信じる人がいる。

反社会的行為を成した、新興宗教のオウム真理教でも、今、なお、信者がいるという。
一度、信じてしまうと、信じ続けるという、癖が出来る。

更に、人間は、何か、信じるものが必要なのか・・・

そのようである。
何せ、自己に関する、幻想にさえ、気づかぬ人がいる。
更には、自己妄想である。
それは、精神疾患ではない。

人間の精神に根付く、畏怖、恐怖、不安、心配、その他、心理的に、存在する諸々の、感情の行き着く先に、何かを信じるという、感情が芽生える。

人間は、宗教でなくとも、何かを信じている。
そういう存在が、人間であると、得心する。

どれ程の、教祖が、詐欺罪で、捕らえられたか、知れない。
だが、その信者たちは、それでも、信じ続けるという場合も、多々ある。

問題は、それ、である。
全く、何も信じない人はいない。

ある人は、科学を信じている。
医学を信じている。

そして、解らないものを、信じるのは、人間の本能でもあると、言える。

ここで、宗教心理学などを持ち出さなくても、いい。
それこそ、余計な謀である。

念仏から、題目から、朗誦に至るまで、様々な、信仰形態が存在する。
それで、救われる、或いは、現世利益を求める。
人間は、そのような存在なのである。

だから、宗教を学ことと、信仰は、別物として考えるべきだ。

あらゆる宗教は、人間の幻想、妄想から、はじまっている。
そこに、理屈を付ける。

日本の伝統宗教は、神道だと言うが・・・
伝統は、宗教ではない。
つまり、神道が、宗教ならば、伝統ではない。

更に、そこに、教義や、教学なるものが現れると、伝統ではなくなる。
それは、宗教になる。

日本の新興宗教は、神道系、仏教系、そして、僅かであるが、キリスト教系、その他、諸々。しかし、既存の宗教を基にして、新しく作り上げる方が、易い。

更に、新興宗教から、また、新しい新興宗教が出来るというように。

教祖がいて、教義があり、組織がある。
そして、宗教の一丁出来上がりである。

だが、宗教とは、名ばかりで、すべてが、営業、産業なのである。
そこで、消費されるものを、見てみるがいい。

寄付から、献金から、上納金から、何から何まで、金である。
どんな宗教を問わず、金である。
商売と言わずして、何と言うのか・・・

信ずる行為と、同じように、金を出させる行為も、宗教の得意技である。

結果、信ずる者は、騙されるのである。

そこには、不思議が付きまとう。
信仰により・・・云々・・・
だが、信仰により、死ななかった人はいない。

どんなに、奇蹟を言っても、不死ということは、無い。
つまり、それが、宗教の限界なのであり、すべてが、ウソであるということである。
信じて、死なないとなれば、本当かも、しれない。

何せ、死を恐れて、信仰の道に入る人も多々いる。

宗教的なものを、信じるという行為は、自分の何かを、明け渡す行為と同じである。

ナザレのイエスは、ユダヤ教の信者だった。
そして、ユダヤ教の改革を目指していた。
ユダヤ教から、一歩も出ていないのである。

更に、イエスの信仰は、黙示的である。
つまり、預言的である。

だが、何一つも、起こらなかった。
起こったことは、自分が磔られたということである。
反体制の活動をしたという、理由で。

それは、ユダヤ教指導者にもあてはまり、ローマに対しても、あてはまった。
単なる、遊行の説教をしていただけである。

その福音書が、これほどに、矛盾だらけであるという。
それが、面白いことに、何の反省も無く、取り入れられて、イエスを人類のメシアだの、仏陀と並ばせて、人類の大師だと言う者もいる。

ナザレのイエスに、権威がついたからである。
仏陀も、そうである。

だが、仏陀の国だったインドは、結局、仏陀以前のバラモンから、ヒンドゥーへと、今も、抜けられない。

紀元前からの、カースト制が未だに残り、人々を、苦しめる。
信仰とは、実に、怖ろしいものである。

この、宗教的にも平和な日本で、信仰、信教の自由を享受している、日本人には、宗教の恐ろしさが、中々解らないのも、頷ける。




posted by 天山 at 06:02| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。