2014年06月04日

神仏は妄想である。480

福音書が、作られたものであれば、それによる、キリスト教というものも、作られたものである。

突然、天から声が聞えて、キリスト教が出来た訳ではない。
そんなことは、この地球が出来てから、一度も無いことである。
更に、人類の歴史にも無いことである。

大方のキリスト教徒にとって、信仰とは、キリストを信じ、彼を通して神を崇拝することだからだ。聖書を信仰することとは別物なのである。
アーマン

カトリックの信仰告白という、ミサの前に唱える文句にも、聖書を信じるなどとは言わない。
そこには、キリストを信じると、言う。

聖書が非常に人間的な本であるというだけではなく、キリスト教そのものが、発展し、今日の私たちに伝えられてきた経緯から見て、人間が創った宗教であるということだ。
アーマン

つまり、神は、宗教を創らない。
また、仏も宗教を創らない。

では、何故、宗教を創るのか・・・
それは、少数の人間の欲望からである。
支配欲か・・・名誉か・・・

あるいは、お金儲けか・・・
確かに、宗教屋というものが、多い。
特に、新興宗教などは、明らかに、宗教屋である。

日本でも、詐欺で逮捕された多くの、教祖がいる。

さて、
キリスト教の中核は、何と言っても苦悩するメシアへの信仰であろう。「メシア」という用語は、ギリシャ語の「キリスト」に対応するヘブライ語である。
アーマン

だが、キリスト教のメシアは、旧約聖書が存在しなければ、存在しないものである。
だが、ユダヤ人は、イエスをキリスト、メシアとは、認めない。
何故か・・・

キリスト教のメシア観と、ユダヤ教のメシア観が違うのである。

イエスは、ユダヤ教の一派であった。だから、本来は、イエスの考え方から、出なければならないが・・・
キリスト教は、白人によって、勝手に出来上がってしまったのである。

非ユダヤ人によって・・・

キリスト教が誕生するまで、伝統的にユダヤ教には、苦悩するメシアの待望論は存在しなかった。
アーマン

キリスト教は、旧約聖書から、苦悩するメシアについて、頻繁に引用してきた箇所がある。しかし、イエスを信じないユダヤ教徒の反論は、非常に説得力がある。

つまり、キリスト教が引用する、旧約聖書の箇所は、メシアについて、一切言及されていないのである。

ユダヤ人は、これらの記述は、メシアではなく、誰か別の人間(あるいは大勢の誰か)のことを指していると、伝統的に解釈してきた。
アーマン

私たちが知る限り、キリスト教成立以前のユダヤ人は、誰一人として他人の罪のために苦しみ、死んだ後に生き返るメシアを待ち望んでいなかった。ならば、メシアとはどのようなものなのか? 私たちは、イエスの時代に書かれたユダヤの古文書から、ユダヤ人が思い描いていた多様なメシア像を知ることができる。そうしたメシア像は、イエスとかけ離れていた。
アーマン

全くその通りで、メシアとは、油を注がれた者、である。
旧約聖書には、メシアが多数登場するのである。

彼らは、与えられた使命を果たすために、神が選び、愛した者であることの象徴として、儀式で、油を塗られた。
祭司や王たちである。

古代イスラエルの伝承では、神がダビデ王に、子々孫々の至るまで、イスラエルの王として、君臨することを約束したとある。
しかし、歴史が移り変わると、この約束が、破られた。

ダビデ王朝が四百年以上統治した、ユダ王国は、紀元前586年に、バビロニアに滅ぼされた。
ダビデの血を引く王の、治世は、終わったのである。

しかし、神は、ダビデの子孫が、王であり続けることを、約束したのである。
それでは、神の約束は、歴史的な現実と、どのように折り合いをつけるのか・・・

一部のユダヤ人は、神が、自分に背いた民を罰した後、塗油された王を復活させ、イスラエルを治めさせることによって、約束を守ると考えた。この王こそがメシア、すなわち新たに油を塗られた者であり、イスラエルの敵を倒し、この地に独立国家たるイスラエルを再建する、ダビデのような、偉大な戦士にして王なのだ。
アーマン

しかし・・・
ペルシャ人がバビロニア人にとって代わり、ギリシャ人、エジプト人、シリア人、そして、ローマ人へと支配者が変転して行く。
イエスの時代まで、ダビデの末裔が王位に就くことはなかった。

残念、無念である。
結局、神の約束も、人間が、作り上げた妄想だったのである。
あるいは、神の心変わりか・・・

伝承、神話に登場させる、神々とは・・・
それは、人間の、空想であり、また、人間力の徴、象徴として書かれているのである。
あるいは、自然の働きなど・・・

もし、霊界に旧約聖書に登場する神が、存在しているとすれば、それは、そういう人々の意識の塊が、それを創り上げているということである。

人間の、妄想力は、現実に映像を創る程、強いのである。




posted by 天山 at 09:25| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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