2014年06月11日

国を愛して何が悪い138

推古天皇の頃、実は、聖徳太子が、国書を作っていた。
それを蘇我家が、保存していた。

だが、蘇我入鹿が討たれたことにより、蘇我蝦夷は、屋敷に火を放ち、燃やしてしまった。
もし、それが、残っていれば、まだ古代の謎が解けた。

焼け跡の中から、その一部が、天智天皇に渡された。
それから、古事記編纂へと行く。

古事記という言場の古墳から発掘された一語一語は、それぞれ何百年もの背景をもって錯綜している。
亀井

つまり、古事記に込められた、祈り、である。

文字が無かったから、言葉がなかったということは、有り得ない。
その言葉が、後に、言霊と呼ばれるほどのものになるのである。

言葉と文字の発生には、それぞれの民族の思いがある。
矢張り、言葉と文字には、特別の感覚があった。

日本の言葉の発生は、
精神史に即して考えるとき、一番大切なのは、神々のいのちとしての言葉ではなかろうか。
亀井
と、いうことになる。

縄文期の人々は、平和であり、自然と共生して生きていた。
争いというものがないのである。

つまり、自然の共生の中に、自然から多くのことを学んだ。
その時に、自然が、結び、産霊、むすび、という事実を観た。

古事記の中でも、天照御大神と並び、産巣日神、むすびのかみ、根源神として存在するほど、大切なことだった。

むすび、とは、働きのことである。
自然の中は、むすび、に溢れていた。

そして、人間もまた、むすび、によって、生かされ、生きているという事実である。

その産霊、むすび、が後に、タマと別名が付く。
タマとは、魂と後に書くようになる。

そして、地、チという言葉である。
この、チは、地だけではなく、原始霊力を現した。

更に、集落の人たちを、まとめるカミである。
それは、上として、著した。

現在の神観念とは、全く別物である。

更に、大和言葉を探ってゆくと、そのカミは、分配する人という意味になってゆく。

カム、カマ、カミという、並びにある。
カムは、魂、霊であり、カマは、竈である。
人間は、目に見えない、カムと、食べること、竈によって、生きている。

その後、カミという言葉が、出来た。
それが、漢語の神という文字に当てられた。

さて、最初の言葉は、霊が懸かり、シャーマンと呼ばれる、巫女から発せられたという考え方が学問の世界では、取り入れられている。
間違いがないだろうと、思える。

それから、繰り返されて、一つの言葉の意味が、出来上がる。
最初は、全く、わけのわからないもの、である。

亀井は、
暗示的であったり、象徴的であったものの中から、生死や生産のふしぎにむすびついた感動深い音声の思い出が幾たびもくりかえされ、口伝され、そうしているうちに「言葉」を誕生せしめ、一の「表現」(詞章)に達したのではないか。
と、言う。

最初は、感動深い、音声である。
それが、繰り返されて、言葉の初めとなる。

この場合、巫女の姿態が動き、言葉の誕生は同時に舞踊の誕生であったと想像してもよかろう。つまり唱えることと、身体を動かすことで、古代人の精神はおそらく最初の「形」を与えられた。
亀井

神楽というものが、生まれる。
それは、言葉の初めと、同じである。

その無意識の伝えが、今も、各地の祭りで行なわれる。
お祭りは、歌と踊りである。

どの民族においても、そのようである。

踊りは、お祭りの場だけではない。
現代の踊り、つまり、体を動かすことで、原始的な意識を取り戻す。そして、何かを回復している。一時期流行したディスコなども、それである。

踊りで、陶酔した無意識が、時に、大きな暗示や、生きる力を与える。

今日の我々の経験から言っても、言葉ほどあいまいで不安定なものはない。たとえば「思想」とか「自由」とか「愛情」といった言葉を我々はわかりきったもののように使っているが、その一つ一つをとりあげて、厳密に検討すれば、各人各説となって、すなわちわけのわからないものになってしまう。それを幾重にも組み合わせながら、辛うじて或る「表現」に近づくわけだが、それは辛うじて近づくだけであって、当事者からもれば「表現」に完成のないことは周知のとおりである。完成とは一種の「中絶」であるか「死」である。
亀井

感動による沈黙の深さは、その恨みが宿っている筈だ。
亀井

この沈黙・・・
ここに、日本人の精神の秘密がある。
沈黙するほどに、感ずる心、である。

何が何でも、言葉にしようとする、欧米の思想とは、全く、別物である。
そして、その沈黙を破るとする場合は、歌になるのである。

言葉の羅列を嫌う。
言葉を極限に抑えて、表現する。
だから、今も、和歌の伝統が生きているのである。



posted by 天山 at 06:11| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月12日

沈黙を破る92

中国という国は、国、及び人民が、基本的に、誤っている。
人倫も、道徳も倫理も無いのである。

一々例を上げると、キリが無いが・・・

昨年は、タイ、チェンマイ市民から、中国人観光客は、来ないでくれと、言われた。更に、チェンマイ大学の校内も、中国人は、禁止となった。

何故か。
汚い、煩い・・・
人の迷惑を考えない。

中国人の食事の後は、呆れるばかりである。
人のことなど、論外なのである。
自分、自分たちが、一番・・・という、呆れた精神構造なのだ。

タイ、東南アジアで見かける、おかしな日本語の製品が、溢れている。
日本製に見せかけているのである。

皆々、中国からのもの。
更に、これは、日本製です、と、宣伝までする。

あれほど、反日行動に出るのに、日本製を名乗る根性とは・・・

マレーシアでは、更に、酷かった。
電化製品すべてが、日本製と偽り・・・

しかし、現地の日系企業は、訴えることもしなかった。
今に、解る。
そして、その通りになった。

すぐに、毀れる。
これは、日本製でしょうと、客が、来る。
その時、違います。これは、中国製ですよ・・・

それで、漸く、気づく。

平然として、日本製を名乗るという・・・

とても、日本語ではない言葉を書き付けて、日本製という。
タイの人から、これは、どういう意味の言葉と、尋ねられる。
そんな日本語は、ありません・・・
えっ、と、愕然とされる。

中国の物でしょう。
そうなんだ・・・

何から、何まで、そのようである。

中国製品を禁止していても・・・
日本製と、言われれば、受け入れている、多くの国の商売人たち。
実は、中国製だと、知ると・・・

また、中国人の旅行客、その団体に出会うと・・・
公共の場であるという、意識が無いのである。

団体が、その場を占領する。
そして、そこに、他国人が、荷物を置くと、ここに置くなと、怒鳴るのである。

一体、ここを、何処の誰の場所だと、思っているのか・・・
そんな、理屈は通用しないのである。

兎に角、手前勝手なのである。

中国人排斥運動が起こる、理由が実によく解る。

至る所・・・排斥されている。
または、倦厭されている。

本当に、世界を知らない、世間知らずである。

これは、そのまま、中国共産党にも、あてはまるのだ。

問題があれば、そちら側のせい・・・
自分たちには、問題は無いと、思っている。

領土問題でも、すべて、他国のせい、なのである。

経済が停滞すると、日本のせいだ・・・
呆れる。

一度、漢民族は、滅びた方が、よさそうである。

あるいは、育て直しが必要である。
中国の歴史は、70年ほどである。
四千年・・・・ウソ・・・

彼らは、勝手に、中国大陸の歴史を言うのである。
それが、歴史だと、思っている。
これも、共産党の、洗脳である。

中国共産党以前の歴史を否定して、はじまった国が、中華人民共和国である。
都合の良い時だけは、四千年、あるいは、五千年と言う。

それでは、ウソまみれの、歴史である。

兎に角、中国人は、どんなに良い人に見えても、信用しないことだ。
その人に問題が無くても、その人の周りに、問題のある人が、山ほど存在するのである。

世界的常識・・・
それを説明するのは、難しいが・・・
兎に角、中国という国、そして、その人民は、常識が無い。
常識外れなのである。

心して、置くべきだ。

posted by 天山 at 06:49| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月13日

霊学162

人間の魂の本性は固有の内面世界であり、この点でその体的本性から区別される。この固有の世界はもっとも単純な感覚的知覚に注意を向けるだけで、ただちに立ち現れてくる。他の人間も彼自身とまったく同じ仕方でこのような単純な感覚的知覚を体験をするものか否か、誰もはじめはそのことを知ることができない。色盲は事物をさまざまな灰色のニュアンスの中でしか見ない。
シュタイナー

だが、他人の知覚を、私は、知ることは出来ないのである。

シュタイナーは、ここで、感覚的知覚は、魂的内容に属することを、言う。

そして、感覚的知覚に続いて、感情が加わる。
それは、快、不快という感覚を得る。

魂の内的いとなみの、現われだ。

人間は感情の中で、外から彼に働きかけてくる世界に対して、第二の世界を創り加える。さらに第三のもの、すなわち意志がこれに加わる。意志によって、人間はふたたび外界に作用を及ぼす。そしてそのことによって、彼は自分の内的体質を外界に刻印づける。
シュタイナー

魂は、意志行為を通して、外へ流出するのである。

魂は、人間固有の世界として、外界に対置されている。

体的本性は、魂的存在の低層になる、ということだ。

このようにして、徹底的に、シュタイナーは、語り継いでいる。
これは、哲学である。
哲学の方法を用いて、霊学、神智学を語るのだ。

さて、これから、人間は、思考するという。
まさに、哲学である。

知覚内容を思考することで、彼は事物についての認識を獲得する。
シュタイナー

当然である。

ただし、正しい思考に導かれているときのみ・・・
人間としてふさわしい、仕方で、課題が達成出来ることを知ると、言う。

魂はそれ故、二面の必然性に向かい合っている。すなわち体の諸法則によって自然必然性に規定されているとともに、正しい思考に導く諸法則の必然性にも進んで自分を従わせている。
シュタイナー

ここでの、正しいとは、何か・・・

みずから自由な思考の法則にも従っている、らしい。

そりにより、人間は、体が属している秩序より、高次の秩序に、つまり、霊的秩序に属するものとなる。

体が魂から区別されるように、魂もまた霊から区別される。
シュタイナー

体内で作用する、炭素、水素、窒素、酸素の分子だけで語る限り、人は魂に注意を向けていないと、言う。
そこから、甘味、快感を持つ近く内容が現れるとき、はじめて、開始される。

同様に、自分をまったく外界と身体生活とに委ねているときの魂の諸体験だけを見ている限り、人は霊に注意を向けていない。体が魂の基礎であるとすれば、魂はむしろ霊の基礎なのである。
シュタイナー

さて、次ぎは、思考の意識を明瞭にするということである。

脳は、思考の身体的器官である。

正常に発達した脳の所有者だけに色が見えるように、ふさわしい発達をとげた脳の所有者だけに、思考する力が与えられている。
シュタイナー

これもまた、当然である。

人間の脳の構造は。脳の機能との関係において考察されるとき、はじめて理解されるようになる。その機能とは思考する霊の身体的基礎となることである。
シュタイナー

極めて、正確にシュタイナーを紹介するため、引用が多いが・・・

或る人々は思考を過小評価し、「内的な感情生活」、「感受性」をより高くおこうとする。「冷たい思考」ではなく感情の熱さ、感受性の生ま生ましい力を通してこそ、人は高次の認識にまで高められるのだ、とさえいわれている。このように語る人々は、透徹した思考が感情を鈍感にするのを忘れている。
シュタイナー

しかし、そうではない。

高次の世界と係わる純粋で水晶のように透明な思考内容が呼び起こす気分に比較できるような感情や感激など、存在しない。最高の感情というものは「おのずと」現れてくる感情なのではなく、精力的な思考作業において獲得される感情なのである。
シュタイナー

精力的な思考作業により、獲得される、感情・・・
それは、「おのずと」現れてくるものではない。

日本人には、馴染みの薄い、感覚である。
心理学でいうところの、感情とも違う。

この、精力的な感情を辿るために、シュタイナーは、精力的に説明しているのだろうか。

人間の思考は、鉱物界にも存在する、素材と力から、人体中で、思考が十分出来るように、構成され、結合されている。
それを、シュタイナーは、肉体と、呼ぶ。

新しい、物事の解き方を考え出したといえる。
posted by 天山 at 08:25| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

霊学163

生殖、生長を通して、生あるものは生なき鉱物から区別される。生あるものは、生あるものから胚種を通して生じる。子孫は生あるものの系列の中で、先祖と結び付いている。鉱物を生じさせる諸力は、その鉱物を構成する素材そのものに働きかけている。
シュタイナー

当然である。
が、あえて、そのように説明する。

生あるものの形態は遺伝によって伝えられる。
シュタイナー

シュタイナーが、あえて、それらを説明するのは、ある時点から、霊学の言い方になるからである。確認しているのである。

或る生物がいかに生長するかは、どのような父母から生じたのか、換言すればどの種に属するのかに依存している。それを構成している素材は絶えず入れ替わが、種は生命のある間は存続し続け、子孫に遺伝される。
シュタイナー

これも、その通りである。
だが、そこから、
この種を形成する力は生命力と名付けられる。
そして、その生命力から得た、身体、及びそれにまつわる、体を、エーテル体、生命体と名付けられる。
と、なる。

しかし、ここで言う、エーテル体は、それ以前の自然科学で言われる、エーテル体とは、違うのである。

その、註には、
非有機的自然の諸法則は有機体内でも結晶体内でも等しく同じ法則である。しかし有機体内には非有機的ではない何かが存在するのである。そして、それが形成する生命であり、この生命の根底にはエーテル体もしくは形成力体が存している。
と、ある。

シュタイナーの、エーテル体は、
すべての植物、動物の中に、物質的形態以外に、生命に充ちた霊姿をも感知する。
と、ある。

それが、エーテル体であり、生命体である。

エーテル体は物質的な素材や力が産み出したものではなく、物質的な素材や力を生あるものに変えるところの独立した現実的本性なのである。
シュタイナー
と、いうことになる。

霊学的に語れば、単なる物体は、たとえば結晶体のように、その形態を無生物の中に内在している物理的形成力を通して得ている。生きた身体はその形態をこの力を通しては得ていない。なぜなら生命が離れ、そしてただ物理的力だけに委ねられた瞬間に、生きた身体はその形態を分解しはじめるから。
シュタイナー

死ぬということである。
死によって、生命が、離れると、分解し始めるのである。

この生命体を見、それを他の存在の中に知覚するためには、目覚めた「霊眼」が必要である。
シュタイナー

この、「霊眼」が、全く、新しい概念として、登場してくる。

論理的根拠から、生命体を容認することは出来るが、色を肉眼で見るように、それを見るには、霊眼をもってしなければならない。

人間のエーテル体のあり方は、思考する霊に対応している点で、動、植物のそれから区別されている。
シュタイナー

人間は、肉体を通して、鉱物界に属しているように、エーテル体を通して、生命界に属している。

だから、死後、肉体は、鉱物界へ、エーテル体は、生命界に解消される。

「体」とは存在に何らかの種類の「形姿」、「形態」を与えるものをいう。「体」を物体ととりちがえてはならない。本書でいう体は、魂や霊として形成されるものにも用いられている。
シュタイナー

だが、生命体は、人間にとって、まだ、外的なものである。
外界と呼ぶものを、何処まで辿っても、感覚に出会うことはない。

更に、そこからの説明が続く。

生命体の観察が出来るなら、物理的な脳の働きが、同時に生命の働きであることを、知覚する。
しかし、光線を感じた人の青色の知覚を、このような仕方で、見出すことは出来ない。

それはその人の魂の内部で、はじめて生じるものである。
だから、光線を受け取った存在が、肉体、エーテル体だけしかなければ、この知覚は、存在しえない。
つまり、魂が、必要なのである。

更に、それを、知覚する働きの、源泉を、感覚魂、と呼ぶ。

感覚魂の知覚に対しても、エーテル体で説明したと同じようになる。

肉体の諸器官は感覚魂を見ることができない。生命を生命として知覚できる器官もまだそれを見ることができない。しかしこの器官によってエーテル体が知覚できるように、それよりもさらに高次の器官によって、感覚の内的世界も特殊な超感覚的知覚内容になることができる。そのとき人間は物質界、生命界の諸印象を感知するのみならず、感覚体験をも見る。
シュタイナー

ここで、見る、というのは、超感覚的世界の、言い方である。

それは、我と他では違う。
他の人間の感覚世界は、ただ見者だけが、開かれた「霊眼」をもって、見ることができるのである。

見者でない人間は感覚世界を外には現れない自分の魂の「内なる」体験としてしか知らない。開かれた「霊眼」をもって見れば、その他の場合には他の人間の「内部で」だけ生きているものが、外なる霊的光景の前面に輝き出る。
シュタイナー

更に、
見者は、他の人間の感覚世界の内容と同じものを体験するのではない。他の人間は感覚内容を自分の内的視点から体験する。見者は感覚世界のひとつの表明、ひとつの表現を知覚するのである。
シュタイナー

何とも、回りくどい、言い方であるが・・・
その霊界に、辿り着くまでは、批判を控える。

posted by 天山 at 06:07| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月15日

霊学164

感覚魂はその作用に関してはエーテル体に依存している。なぜなら感覚魂は、自分が現出させる感覚内容を、エーテル体から取り出してくるからである。そしてエーテル体は肉体内の生命なのだから、感覚魂は肉体にも間接的に依存しているのである。健康な肉眼だけがふさわしい色彩感覚を可能にする。このように体的本性は感覚魂に作用している。だから感覚魂はその働きを体によって規定され、限定されているといえる。それは体的本性によって引かれた境界線の範囲内で生きている。
シュタイナー

シュタイナーの考え方・・・
それは、シュタイナーの概念、あるいは、観念を理解するということだ。
一般通念としての、言葉は無い。

だから、シュタイナーが、自身の著書から学べと言うが・・・
それが、誤りだったら。また、解釈の仕方に、誤りがある場合は・・・
シュタイナー教育なども、提唱されているが、一体、シュタイナー以外の誰が、それを正しく教え、伝えられるのか。

しかし感覚魂の境界は肉体の境界と重なり合ってはいない。感覚魂は肉体を越えて聳え立っている。
シュタイナー

それは、肉体よりも、勢力範囲が大きいということ。
だが、感覚魂に、境界を設ける力は、肉体から発している。

それにより、肉体とエーテル体、また、感覚魂、この両方の間に、人間本性の、特別の部分が設定されなければならなくなっている。

それが、魂体もしくは、感覚体である。
エーテル体の一部分は、他の部分より、精妙にできている。

通常の感覚とは、心理学で言う感覚として、考えると、確かに、肉体を越えて行くが・・・
だが、それも、肉体あればそこの問題である。

そしてこの精妙なエーテル体部分が感覚魂と統一体を形成しており、一方そのより粗雑な部分は肉体と一種の統一体を形成しているのである。
シュタイナー
しかし、感覚魂は、魂体を突き抜けて、聳え立つ。

ここで感覚と名付けられているものは魂の本質の一部分に過ぎない(感覚魂という表現は簡明さの故に選ばれている)。感覚には快、不快、衝動、本能、情欲が結び付いている。これらすべては感覚と同じ特性、特質をもっており、体的本性に依存している。
シュタイナー

更に、
感覚魂は体に対すると同様、思考つまり霊に対しても、相互作用をもっている。まず思考が感覚魂に仕える。人間は自分の感覚内容について思考をめぐらし、それによって外界を解明する。
シュタイナー

これほど、回りくどい言い方をしているのは、その世界が、霊学だからである。
シュタイナーの霊学というものに、導こうとするのである。

感覚魂は、動物も同じく有する。が、動物は、直接従うだけで、それを超えた思考内容と、結び付けない。
思考能力をもった、より高次の魂は、悟性魂と名付けられる、と言う。

その別の側面は、心情魂もしくは、心情とも呼びうるだろうとのこと。

自分で一つの、体系付けた思想を表現するのであるから・・・
当然、新しい概念、あるいは、観念の言葉が必要だが・・・

悟性魂は感覚魂に浸透している。それ故、魂を「見る」器官をもつ者は悟性魂の中に単なる感覚魂とは異なる特性を見る。
シュタイナー

上書きして、更に、上書きして書き付けている。

人間は思考を通して個人生活の圏外へ出ていく。彼は自分の魂を超越した何かを手に入れる。
シュタイナー

以前、高橋巌氏の、解説を延々と紹介したので、ある程度は、理解出来るものである。
だが、直接、シュタイナーを読む者が、果たして、シュタイナーを理解出来るのかは、疑問だ。

何故、あえて、解ることを、解りにくくして、書くのか・・・
私には、よく解らない。

哲学とは、深くより深く掘り下げて、物事を見つめる態度である。
それは、シュタイナーの著作でも、同じことだ。

そして、物事の、原理を探る行為である。
行為ではない。
原理である。

だから、くどいのである。

思考の法則が宇宙の秩序と一致していることは、彼にとって疑う余地のない事実なのだ。彼はこの一致が存在するからこそ、自分をこの宇宙の定住者であると考える。この一致が存在するという事実によって、人間は自己の本性が何であるかを学ぶのである。
シュタイナー

改めて、考えると、その通りである。
しかし、日々の生活の中では、それは、当たり前過ぎて、意識する事は無い。
シュタイナーの著作によって、それは、当たり前だと、納得する。

そういう、シュタイナーの行為を、哲学するという。
哲学である。
それが、霊学となると・・・

感覚魂、悟性魂、心情魂・・・
新しい意味づけになるのか。

感覚、悟性、心情なのである。
改めて、魂と名付けることに、何の意味があるのか・・・
と、いうこで、まだ先は、続く。

人間は自分の魂の内部に真理を求める。
シュタイナー

そのように、改めて言うのである。
だから、私も改めて言う。
シュタイナーを読み続ける行為によって、シュタイナーに洗脳されて行くのである。

posted by 天山 at 05:52| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月16日

霊学165

気に入ること、気に入らぬこと、欲求と嫌悪は個人の魂に属する。これらを超えたところに義務が立っている。人間にとって義務は、そのために生命を犠牲にする程までに、高い意味をもちうる。そして人間は、自分の性向や好悪の感情を教化して、強制や服従なしに、自分から進んで認識が教える義務に従うようになればなる程、高次の段階に立っているのである。人倫=善は真理同様、永遠の価値を自分自身のうちに担っており、それを感覚魂から受け取るのではない。
シュタイナー

人間は、独立した、真と善を、自分の内部に生かすことで、自分を単なる、感覚魂から、超越させる。

永遠の光がこの感覚魂の中にさし込む。消え去ることのない光がそこに生じる。
シュタイナー

その、光の中に生きる限り、永遠の存在を有している。

魂の中で永遠の存在として輝くものは、ここでは意識魂と名付けられる。
シュタイナー

今度は、意識魂、である。

だが、人倫が何かということについては、語らない。
更に、真、善というもの・・・

魂の中の、不死なるもの・・・とは、言うが・・・

哲学者もまた、普遍の真理なるものを、考え続けるが・・・
いや、普遍の原理・・・

ここで意識魂と呼ぶのは、人間意識の核心、つまり魂の中の魂のことである。意識魂は、ここでは魂の特別の部分として、悟性魂から区別される。悟性魂はなお感覚、衝動、激情等の中に巻き込まれている。人は誰でも、はじめは自分の感覚や衝動の中から取り出してきたものを、真実だと思おうとする。しかし感覚等々に含まれた共感、反感の添え味をすべて取り去った真理だけが永続的真理なのである。真理は、たとえすべての個人的感情が反抗するときにも、真理である。この真理が生きている魂の部分を意識魂と呼ぶのである。

魂にも、三つの、区別が出た。
感覚魂、悟性魂、意識魂である。

そして下から体的本性が魂を限界づける働きをするように、上から霊性が魂を拡大する働きをする。
シュタイナー

物理学でも、数学でも、哲学でも、それらが説明出来るのだろうか・・・
上から、霊性を、云々とは、シュタイナーの場合は、特別な感触を持っている。

霊性という言葉を使うのは、主に宗教的発想である。
また、哲学でも、それは、別な意味を持つが・・・

シュタイナーの場合は、特殊なのである。

なぜなら魂が真と善とに充たされる程、ますます永遠なものがその中で大きく、勢いを増していくからである。
シュタイナー

そして、ここから、また、特別な言い方になる。

魂を「見る」能力をもつ者にとって、永遠の部分を拡大していく人間から生じる輝きは、肉眼にとって燃える焔が現実であると同様に、現実に存在する。
シュタイナー

この、「見る」という能力もまた、シュタイナーの世界のものである。

文字面だけでは、理解し難い・・・

「見者」にとって、体的人間は人間全体の一部に過ぎない。
シュタイナー
確かに、その通りだろう。
しかし、「見者」にとって、である。

体は、人間のすべての部分が相互に浸透し合っている中で、もっとも粗雑な部分である。肉体を生命形態にしているのが、エーテル体である。このエーテル体を超えて、あらゆる側面に魂体(アストラル的形姿)が拡がっている。さらにこの魂体を超えて、感覚魂が拡がり、その上に悟性魂が拡がっている。悟性魂の拡がりは真と善を受容すればする程、大きくなる。なぜなら真と善が悟性魂の拡大の原因なのだから。もっぱら気に入るか、気に入らないかという好みの観点に従って生きる人間の悟性魂の境界は感覚魂のそれと合致している。肉体の周りに雲のように現れるこれらの構成体は人間のオーラと呼ばれている。
シュタイナー

好みだけに従っている人間は、悟性魂が、拡がらず、感覚魂と、合致していると言う。
それでは、大半の人間が、そうである。

ここで言う、真と善とは、何か・・・
よく解らないのである。
勿論、キリスト教徒なら、それは、神であるが・・・

好みによって、真と善を考える人は、感覚魂と悟性魂が、合致しているということになる。
これは、批判ではない。追求である。

それから、オーラについての話が続くのだが・・・

エーテル体を超えて、アストラル的形姿が、拡がる・・・
その前に、肉体がある。その肉体を肉体にしているのが、エーテル体である。

アストラル体を、私は、幽体と呼んでいるが・・・
更に、オーラを発するものは、魂となると、考えている。

ただし、シュタイナーの概念に従うべきだ。
今は、それを理解しようとしている。

ただ、問題は、「見者」である。
霊能力者ということか・・・

あるいは、シュタイナーの著作を読んで、深めて行けば、見者になるのか・・・
誰が、見者として、認めるのか・・・

ここに、とても、怖ろしい罠があるように、思う。
誰もが、本当にそのように、成れるのか・・・
勿論、真と善を有する者。


posted by 天山 at 06:47| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月18日

霊学166

人間は自我意識を通して、自分を他の一切から区別された独立の存在であり、「私」であると考える。人間は体と魂の存在として体験するすべてを、「私」の中で総括する。体と魂とは私の担い手であり、体と魂の中で「私」は働く。肉体の中心が脳にあるように、魂の中心は「私」にある。
シュタイナー

肉体の中心は、脳であり、魂の中心は、私である。
理解出来るが、説明せよと言われれば、実に難しい。

「私」という概念も、霊学では、通常の「私」ではなくなる。

実際「私」に関しては、人間はまったく独りなのである。
シュタイナー

そしてこの「私」こそが、人間そのものなのである。このことがこの「私」を人間の真の本性と見做すことの正しさを示している。それ故人間は、自分の体と魂とを、その中で支え自分が生きるところの「外皮」であると考えることができる。
シュタイナー

私にとって、体と、魂は、外皮である。
魂の中心が、私、であるのに・・・

人間は、進歩向上するにつれて、この二つをますます自分の「私」の使用人として使うことを学ぶ。「私」という目立たぬ言葉は一切の他の言葉から区別される。この言葉の意味をよ考えるなら、深い意味での人間本性の認識への通路が開かれる。
シュタイナー

ただ内からのみ、魂は「私」という言葉を聴く。だから人間が自分に対して「私」というとき、そこからあの「外皮」が取り出されてきたところの諸世界のいずれとも係わりをもたぬ何かが人間の中で語りはじめる。この「私」こそが時とともにますます体と魂との支配者になっていかなければならない。
シュタイナー

私を意識する、私という意味として・・・
私が、支配者となる。
当たり前だ。

その、私に目覚めることが、私を認識するのである。

人間の成長を見れば、一目瞭然である。
成長と共に、自然に、そのようになってゆく。

そのことが、オーラに反映されると言う。

私が体と魂の支配者であればある程、オーラは分節化され、多様化され、多彩になる。
シュタイナー

そして、見者は、それを見ることが出来る。

しかし、私そのものは、見者にも、見えない。

さて、この自我は人間の中で永遠の光として輝く光の放射を、自分の中に採り入れる。人間は体と魂の諸体験を「私」において総括し、真と善との思考内容を「私」の中へ流入させる。一方から感覚の諸現象が、他方からは霊が、「私」に自己を打ち明ける。体と魂は「私」に奉仕し、「私」に自分を委ねるが、「私」は自分の目的を霊が実現してくれるように霊に自分を委ねる。「私」は体と魂の中に生き、霊は「私」の中に生きる。そして自我の中のこの霊こそが、永遠なのである。
シュタイナー

つまり、体と魂があり、私があり、その私は、霊の中に生きるということ。

自我は肉体の中に生きている限り鉱物の法則に、エーテル体を通して生殖と成長の法則に、感覚魂、悟性魂によって魂界の法則に従っている。そして霊的存在を自分の中に受け容れることによって霊の法則に従う。鉱物の法則、生命の法則が形成するものは、生成し死滅する。しかし霊は生成と滅亡には係わらない。
シュタイナー

ということで、霊は、永遠不滅のものなのである。
つまり、霊は、生き続ける。存在し続ける。

これは、信じるか、否か・・・
あるいは、思考から、徹底的、論理的に、それを知るかである。

そういう世界に、全く係わらない人もいるだろう。
生きるに、必要と感じない人も。

これらは、以前に書いた、人智学、神智学などについて、再度、目を通して欲しい。
更に、シュタイナーの時代感覚である。

永遠不滅の存在・・・
それは、人間の叡智である。

すべてが、脳の働きから来るものであると、考える人たちが多い。
脳が死滅すれば、すべては、死滅する。

永遠不滅の存在は、無い。
ここで、人間は、二通りに別れるだろう。

だが、シュタイナーを理解するには、永遠不滅の存在があるという、前提に立って、進まなければ、理解出来ない。

その、永遠不滅の存在は、輪廻転生している。

その根拠を、シュタイナーは、徹底的な思考を通して、更に、論理的に考えたのだろう。
私は、否定はしない。
だが、後々に、批判する。

シュタイナーの哲学は、批判ではなく、融合を唱えるが・・・
批判とは、合理主義、つまり、哲学の態度である。

シュタイナーは、哲学を超えると考えた。
ただし、それは、万人に理解されるのか否かは、別問題である。

だから、霊学となるのだ。
そのための、「行」までシュタイナーは、準備している。
そして、そこで、超感覚的世界に目覚めること。

超感覚的世界とは、霊学、そして、霊界の有り様である。
posted by 天山 at 14:39| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月19日

沈黙を破る93

フィリピンで、韓国嫌い、つまり、嫌韓感情が、非常に強くなっている。
その一つの理由は、韓国人男性による、妊娠、出産であり、その子供たちが、孤児になっているのだ。

フィリピン人の女性に、妊娠させて、自分は帰国する。
雲隠れするのだ。
無責任極まりない、行為である。

だが、日本の男たちも、以前は、そのようなことをしてきた。
日本人の血を引く、子供たちは、二万人とも言われている。

今度は、韓国の場合である。

日本の場合は、反日感情は、あまり起こらなかった。
それは、現地の日本人たちが、出来る限りの支援をしたからである。

だが・・・
韓国人は、ただ、逃げただけ。

観光客だけではない。留学生も然り。
現地の女性を妊娠させて、その後は、帰国して、その後、一切の連絡が無いと言う、状態である。

更に、韓国人は、東南アジアでは、傲慢で知られる。
何処のアジアの国に出ても、傲慢不遜な態度である。

自分たちが、一番だというのだろうが・・・
何が、一番なのか、解らない。

民族主義というが、韓国人に民族などいえるものはない。
馬賊、匪賊の出が多い。

古代朝鮮半島人と、現在の韓国人は、基本的に違うようである。
しかし、その根性は、似ている。
似ているから、半島人なのだろうが・・・

兎に角、手が付けられないのである。

或る意味では、単細胞であり、思慮が浅いといわれる。
複雑なことを、考えることが出来ない。
それは、言葉を見れば、良く解る。

ハングルのみであれば、その思考方法は、単純になる。
漢字を廃止してて、ハングルのみを用いると、思考の幅が狭くなる。

その、ハングル語も、日本の統治時代に、復活させたものであるが。

それさえも、認めない。
彼らは、歴史というものを知らない。
歴史は、空想、妄想の産物なのである。

だから、平気で、ウソをつく。
ウソをついている自覚もないという、無自覚である。

真っ当な、歴史を教えない韓国に、未来は無い。
勿論、韓国に未来がなくても、いい。

彼らとは、関係ないのである。
日本は、韓国とは、関係なく、進んで行くべきである。

足元を取られてしまう。
彼らに、付き合う暇はないのである。

東南アジア、南アジアは、実に、親日である。
日本との関係を、より重視して、未来を考えている。
そういう国と、日本は、積極的外交をするべきで、反日の韓国を相手にする必要は無い。

韓国が、崩壊しようが、係わらない事である。
自業自得・・・

それに、あちらも、助けてとは、云えないだろう。
あれほどの、反日行為をしているのであるから。
posted by 天山 at 06:11| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月20日

沈黙を破る94

そろそろ、沈黙を破る、を終わる。
本当は、最後の沈黙を破る、という、題だったが・・・

その原稿は、実に多い。
最初からの、沈黙を破る、から、何度も書き続けた。

だが、もう、必要なくなったのである。

カウンターテナー藤岡宣男が、死去して、今年で9年である。
きっかけは、それだった。

それまで、言わなかったことを、書き続けたのである。
だから、そろそろ、終わりにすることにした。

色々な文章を、毎日、大量に書いている。
仕事ではない。
道楽である。

勿論、生活することに、汲々だが・・・
どうせ、今世の、一度の人生である。
前世、輪廻転生というものがあるが・・・
それでも、この時代、そして、この肉体で生きるのは、一度だけである。

色々な人が、色々な考え方を持つことが出来るのも、幸せなことだ。

だが、人に強制する、何ものもないのである。
更に、そういう強制は、全体主義に至る。

私は、これまで生きてきて、一時期は、確かに、これが正しいと、考えたことがあり、それを、人にも、強制したことがある。
だが、一瞬のうちだ。

普遍的なことは、誰が、どうしようと、普遍的なことなので・・・
あえて、云々しなくともいい。

或る人には、神様、仏様でも、或る人には、別のものがある。
それで、いい。

最初から、偏見に満ちると、誤る。

しかし、今まで生きてきた、経験から、色々と判断する。
それが、偏見になる事もあるが・・・

この世に、欲しいものが無い。
つまり、もう、色々と議論する事も無い。

そんなものは、死ねば、終わる。

私に取って、大事なことは、死ぬことである。

どのように、死ぬか・・・
何処で、死ぬか・・・
そして、その準備である。

自然死を望む。
しかし、それが周囲に迷惑をかけるようならば・・・

自然死に近い死に方をしたいと、思う。
例えば、自然断食である。
少し、少しと、食べるものを減らして行く。

そうして、死ぬことにする。

一番は、人に迷惑をかけるというのが、嫌なのだ。

ある時期から、死ぬことを、意識的に考えるようになった。
そして、今日が、死ぬ日・・・
いつも、そのように考えてきた。

救いというものがあるならば、それは、死ぬことであると、考えている。

人生は、実に、苦難と苦悩に満ち溢れている。
勿論、私は、そこまで、呻吟することはないが・・・

馬鹿馬鹿しいから、呻吟することはない。

それでは、沈黙を破る、を、終わる。


posted by 天山 at 05:32| 沈黙を破る2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月21日

もののあわれについて679

若菜 上

朱雀院の帝、ありし御幸ののち、そのころほひより、例ならず悩みわたらせ給ふ。もとよりあつしくおはしますうちに、この度は物心細く思しめされて、年ごろおこなひの本意深きを、きさいの宮のおはしましつるほどは、よろづはばかり聞えさせ給ひて、今まで思しとどこほりつるを、「なほその方に催すにやあらむ、世に久しかるまじき心地なむする」など宣はせて、さるべき御心まうけどもせさせ給ふ。




朱雀院の帝は、先だっての、御幸の後、その頃より、ご病気で苦しみになっておられた。
元々、病気がちであらせられるが、特にこの度は、駄目かもしれないと、思いあそばされて、長年の出家の願いが強く、御母后の宮のおいであそばす間は、万事ご遠慮されて、今まで思い止まっていらしたが、矢張り、その方に、つまり、仏道修行に心動くのか、もう長くないような気がすると、仰せられて、そのための、準備をされるのである。

その方に・・・
出家に関することである。




御子たちは、東宮をおき奉りて、女宮たちなむ四所おはしましける。その中に、藤壺と聞えしは、先帝の源氏にぞおはしましける。まだ坊と聞えさせし時参り給ひて、高き位にも定まり給ふべかりし人の、とり立てたる御後見もおはせず、母方もその筋となく物はかなき更衣腹にて物し給ひければ、御まじらひの程も心細げにて、大后の尚侍を参らせ給ひて、かたはらに並ぶ人なくもてなし聞え給ひなどせし程に、けおされて、帝も御心の中にいとほしきものには思ひ聞えさせ給ひながら、おりさせ給ひにしかば、かひなく口惜しくて、世の中を恨みたるやうにて亡せ給ひにし、その御腹の女三の宮を、あまたの御中にすぐれてかなしきものに思ひかしづき聞え給ふ。そのほど御年十三四ばかりおはす。今はとそむき捨て山ごもりしなむ後の世のたちとまりて、誰を頼むかげにて物し給はむとすらむと、ただ、この御事をうしろめたく思し嘆く。




御子たちは、東宮を別にして、女宮たちが、四人いらした。その中でも、藤壺と申し上げた方は、先帝の皇女でいらしたが、東宮時代に入内されて、最高の地位、后の位にもつくはずの方ながら、特に御後見もなく、母方もよい家柄でなくて、実力の無い更衣腹だったので、後宮での生活ぶりも、頼りなく、御母后が、尚侍を参らせ申し上げされて、競争相手も無い程、ご寵愛された中に、圧倒されて、陛下も可哀想と思うが、帝位を降りあそばしたので、何もならない残念なことと、運命を恨むように、お亡くなりになった。
その方の、お生みになった、女三の宮を、多くの御子の中でも、特別に可愛がって大事にしていらっしゃる。その頃、お年は、十三、四くらいでいらした。これを最後と、世を捨てて、出家入りした後に残り、誰を頼りに生活してゆくのかと、ただ、この方のことだけを、気になって、嘆かれる。

すべてが、敬語なので・・・
とても、面倒になる。
敬語の敬語まである。




西山なる御寺造りはてて、移ろはせ給はむ程の御いそぎをせさせ給ふに添へて、またこの宮の御裳着のことを思しいそがせ給ふ。院の内にやむごとなく思す御宝物、御調度どもをばさらにも言はず、はかなき御遊び物まで、少し故ある限りをば、ただこの御方にと渡し奉らせ給ひて、その次々をなむ、こと御子たちには、御処分どもありける。




西山にあるお寺を造り終えて、移りあそばすための準備に加えて、一方では、この女宮の、御裳着の儀式を準備される。上皇御所の中にある物で、大切に思う宝物や、調度類の数々はいうまでもなく、何ということもない、遊び道具まで、少しでも由緒のある物は、すべて、一人この姫君に、お贈りあそばし、それに次ぐ品々を、他の御子たちに、配分された。




東宮は、かかる御悩みに添へて、世を背かせ給ふべき御心づかひになむ、と聞かせ給ひて、渡らせ給へり。母女御も添ひ聞えさせ給ひて、参り給へり。すぐれたる御覚えにしもあらざりしかど、宮のかくておはします御宿世の、限りなくめでたければ、年ごろの御物語、こまやかに聞えかはさせ給ひけり。宮にもよろづの事、世をたもち給はむ御心づかひなど、聞え知らせ給ふ。御年の程よりはいとよく大人びさせ給ひて、御後見どももこなたかなた、軽々しからぬ中らひに物し給へば、いと後やすく思ひ聞えさせ給ふ。




東宮は、このような病気に加えて、御出家しようとする旨を耳にして、おいでになった。
母女御もご一緒申し上げて、参上された。
特別な寵愛ということはないが、東宮が、こうしておいでなさる御運が、この上なく素晴らしく、久しぶりの思い出話を、しんみりと、お話し合いされた。
東宮にも、色々と、国を治めるためのご注意など、教え申し上げる。お年の割には、随分と、大人びているので、お世話役なども、あちらこちらと、立派な間柄でいらっしゃるので、すっかりと、安心した気持ちでいらっしゃる。




朱雀院「この世に恨み残ることも侍らず。女宮たちのあまた残り留まる行く先を思ひやるなむ、さらぬ別れにもほだしなりぬべかりける。さきざき人の上に見聞きしにも、女は心よりほかに、あはあはしく、人におとしめらるる宿世あるなむ、いと口惜しく悲しき。いづれをも、思ふやうならむ御世には、さまざまにつけて、御心とどめて思し尋ねよ。その中に、後見などあるは、さる方にも思ひ譲り侍り。三の宮なむ、いはけなきよはひにて、ただ一人を頼もしきものとならひて、うち捨ててむ後の世に、漂ひさすらへむこと、いといとうしろめたく悲しく侍る」と、御目おしのごひつつ聞え知らせさせ給ふ。




朱雀院は、この世に、気掛かりなことは、何もありません。ただ、女宮たちが、大勢後に残り、その将来を気遣うのが、いざ別れという時に、障りになるでしょう。今まで、人事として見たり、聞いたりしたのでも、女は、思いがけず、浅はかだと、人に見下げられる運命のあるのが、まことに残念で、悲しい。どなたの事も、ご即位された時は、何かにつけて、お心に忘れず、お世話下さい。その中でも、世話する者があるのは、そちらにお任せします。三の宮は、幼い年で、私一人を頼りとしているので、私が見捨てた後は、寄るべきところ無く、途方にくれるだろうと、まことに気掛かりで、心苦しい、と、涙の目を払い、お願い申し上げる。

帝の言葉も、すべて敬語である。
大和言葉の敬語の美しさである。

posted by 天山 at 04:54| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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