生前から、多くの研究がなされていた。
その多くは、大半が、批判である。
マザー・テレサが亡くなった、翌年、ローマカトリックは、即座に、聖人の手前の、福者として、列聖した。
次ぎは、聖人として、列聖するのだろう。
その、カトリックが、名誉挽回のために、マザー・テレサを利用した。
次第に、衰える、ローマカトリックの力・・・
そこで、広告塔として、彼女を利用し、大々的に、世界に喧伝した。
そして、マザー・テレサの、虚像と実像が、きっくりと、明確に現れた。
だが・・・
世界の多くの人たちは、特に、カトリック信者は、聖者だと、信じている。
最近の研究では、カナダで、その報告がなされた。
カルトに似た、団体の主である。
インド、コルカタの貧しい人々を集めて、死者の家を作る。
そこで、彼女は、苦しんで死ぬことを、説くのである。
苦しんで死ぬことが、救いになる。
あれほど、莫大な寄付を得た彼女は、一切の、治療をさせなかった。
実に、不思議である。
ただ、時に、彼女が手を当てて、病を癒す祈りを上げると、患者は、回復に向った。
その、カラクリは、薬を投与したからである。
祈りの結果ではない。
あれほどの資金に恵まれても、そのような施設を造ることは、無かった。
不思議である。
そして、自分の心臓の病は、アメリカの病院に入院して、楽に、痛みなく、手術を受けている。
あれほど、苦しむことを奨励した人が、である。
自分は、痛みの無い、治療法を使う。
とても、矛盾しているが・・・
信じた人には、そんなことは、どうでも、いいことだ。
それでは、彼女は、あの寄付の莫大なお金を、何に使用したのか。
それは、自分の建てた、修道会を世界各地に作ったということである。
生前、自分の修道会を、世界に作る、創立者という聖人は、少ない、というより、いない。
その死後、弟子たち、共感者たちが、その意思を受け継ぎ、修道会を大きくする。
しかし、彼女は、生きているうちに、それを大きくした。
とても、経営能力に長けていたということだ。
私は、彼女の、行為を批判しない。
だが、彼女の、行為のあり方を、批判する。
騙しのテクニックである。
そして、カトリック教会の、宣伝に、大いに貢献したということだ。
カトリック側も、それを良しとした。
それらの、研究とは別に、私なりに、疑問がある。
それは、イエスの声を聞いたという、彼女の話である。
幻覚、幻聴・・・
自分が、イエスだと、判断しただけであり、客観性は、無い。
更に、インドの地である。
どんな霊が、現れたのか・・・
十字架に付けられたイエスが、私は乾く、と彼女に言った。
イエスの、乾きは、貧しい人たちに、奉仕せよと、聞えたのか・・・
人はそれぞれ、信仰の思いや、勘違いが違う。
マザー・テレさの、イエスは、そういう乾きの、イエスだったのだろう。
ここで、心理学を出す必要は無い。
自分が、描いたイエスが、自分の目の前に、現れる。
当然である。
自分の内に無いものは、現れないのである。
ただし、その現れたイエスが、ナザレのイエスなのか、何処のイエスなのか・・・
それが、問題である。
或いは、単なる、いたずら好きな、霊の可能性もある。
ということで、私は、多くの研究より、そちらの方が、興味がある。
生きている人間は、聖人にはならない。
聖人になるのは、死んだ人間である。
その遺徳を偲ぶ意味で、聖人になるのである。
しかし、彼女は、生きているうちに、聖人になった。
彼女に会う人たちは、皆、感動した。
それほどに、彼女には、何か、大きな力、気力、波動、思いという、想念があったのだろう。
その根拠は、何であったのか・・・
怖ろしく、魔的なものの、存在を感じるのである。
何も出来ない、無力な人々を集めて・・・
それだけでも、怪しい。
死ぬ寸前の人たちを、集めて・・・
それも、怪しい。
そして、あなたは、愛されている、云々・・・
あなたは、大切な人である、云々・・・
それでは、どうして、治療を受けさせなかったのか。
金は、たっぷりと、持っていたのに・・・
彼女の修道会の、名称は、小さな兄弟・姉妹会、である。
修道服は、白地に、青の帯を三本。
ちなみに、私は、現在の修道会の活動を、批判するものではない。