2014年05月31日

もののあわれについて678

本居宣長は「物のあはれ」を文芸一般の本質とするに当たって、右のごとき特性を十分に洗い去ることをしなかった。
従って彼は人性の奥底に「女々しきはかなさ」をさえも見出すに至った。これはある意味では「絶対者への依属の感情」とも解されるものであるが、しかし我々はこの表出にもっとも弱々しい倍音の響いているのを感ずる。
永遠の思慕は常に「女々しくはかなき」という言葉で適切に現されるとは考えられない。「万葉」におけるごとき朗らかにして快活な愛情の叫び、悲哀の叫び。あるいは殺人の血にまみれた武士たちの、あの心の苦闘の叫び。あるいはまた、禅の深い影響の後に生まれた「寂び」のこころ。それらを我々は「女々しくはかない」と叫ぶことはできぬ。もとよりここにも「物のあはれ」と通ずるもののあることは明らかである。
和辻 改行は私

それぞれは、矢張り、永遠の思慕の現われだと、和辻は、言う。
だが、平安朝の「もののあはれ」は、その時代に限られる「もののあはれ」であるとも言う。

それぞれの時代性に、鑑みる「もののあはれ」である。
それは、納得する。
しかし、日本の文化、及び、その生活に流れるもの、底流にあるものは、矢張り「もののあはれ」なのである。

「物のあはれ」をかく理解することによって、我々は、よき意味にもあしき意味にも、平安朝の特殊な心に対して、正当な評価をなし得ようかと思う。それは全体として見れば、精神的の中途半端である。求むべきものと求むる道との混乱に苦しみつつ、しかも混乱に気付かぬ痴愚である。徹底し打開することを知らぬ意志弱きものの、煮え切らぬ感情の横溢である。
我々はいかにしてもここに宣長のいうごとき理想的な「みやび心」を見出すことができぬ。しかしまた我々は、この中途半端の現実を通して、熱烈に完全を恋うる心のまじめさをも疑うことができぬ。彼らの眼界の狭小、実行力の弱さは、言わば彼らにとっては宿命であって、必ずしも彼らに責任を負わすべきものではない。
和辻 改行は私

だから、つまり、時代性なのである。
和辻も、くどいのである。

結論に行けば、平安期の女房文学の有り様に、行き着く。

数多く描かれた恋愛の物語を通じて、我々は次ぎのごとく言うことができる。この時代の男は女よりもはるかに肉的である、しかもそこに万葉人に見るごとき新鮮な、率直な緊張感はなく、弛んだ倦怠の情に心を蝕まれている、と。
彼らの生活の内容をなすものは、官能的な恋かしからずんば権勢である。
しかも彼らは恋においても権勢においても、その精神的向上に意を用いることがない。しかるに女は、恋を生命としつつ、しかも意志弱き男の移り気に絶えず心を搔き乱される。彼らが恋において体験するところは、はるかに切実であり、はるかに深い。
和辻 改行は私

そして、そこに、人生の意味価値を見出し、永遠の思慕に根差す、烈しい魂の不安を経験するのである。

和辻も、言うが、遥かに、男よりも、上を行っていたのである。

だが、男は、目の前の男である。
この与えられた男・・・
その男たちから、求めるものを探したのである。

ここに、女たちの、特殊な魅力がある。

彼らは官能的なる一切のものを無限の感情によって凝視し、そうしてそこに充たされることなき渇望を感ずるのである。
和辻

平安期の「あはれ」の背景に、その事実があった。
だから、「物のあはれ」は、女の心に咲いた花である、と和辻も言う。

女らしい「物のあはれ」によって、この時代の精神が特性づけられるもの、やむを得ない・・・

かく見ることによってまた我々は、平安朝の「物のあはれ」及びその上に立つ平安朝文芸に対しての、我々の不満をも解くことができる。言い古されたとおり、それは男性的なるものの欠乏に起因する。しかもこれらの感情や文芸を生み出した境位は、まさにその男性的なものの欠乏なのである。我々は魅力の湧き出るちょうどその源泉に不満の根源を見出さねばならぬ。
和辻

不満の根源を見出す・・・

これは、僭越的である。
男性的なものの、欠乏で、その精神が、生み出したもの・・・
それが、不満でもなんでもないのである。

それでは、男性的なものが、強く出たならば・・・
その、心象風景が、現れなかったのか・・・
そんなことは、無い。

平安朝の文芸に対する、分析は、実に、学べきものだが・・・
女々しい時代の方が、平和で、男性的なものが、欠乏している方が、豊かな精神性を持てるとも、言える。

平安期の文芸には、仏教の浄土思想なども、大きく関わってくる。
勿論、それも、男性的なものの欠乏から、救いを見るという、意味での、解説となるかもしれないが・・・

それでは、その後の、男性的な時代になり、現れた物語は、如何にあるのか。
その中にも、もののあはれ、と呼ばれるべき話は、多数存在する。

平安期の、女々しさは、時代性である。
更に、別の時代にでも、「あはれ」という言葉は、頻繁に使用されている。

禅の深い影響の後に生まれた「寂び」という心象風景も、「あはれ」からなるものである。
禅独自では、生まれようがなかったものである。

更に、禅は、そこに多く言葉を、付け加えた。
しかし、「もののあはれ」は、多くの言葉を要しないのである。

言葉を要するという、その際は、歌詠みをして、「もののあはれ」を見つめていた。

和辻の分析は、西欧の哲学に馴れた者には、優れたものだろう。
また、宣長の、分析の補足も、然り。
宣長の解釈も、時代精神の賜物である。


posted by 天山 at 05:52| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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