和辻
本居宣長の説を、分析、解説する、和辻である。
ここで、もう一度、振り返れば、物語、つまり、大和言葉によって、理解されなければならないということである。
そうして、理解された時に、外国語に、翻訳出来るのである。
和辻も、哲学的考察をしてるが・・・
目前には完全に現れていないものである・・・
「ある」ものであり「あった」ものだが、完全に現れていないもの。
これが、もののあはれ、を理解するのに、不明だった。
完全に現れていないものに対する、美意識である。
その美意識は、「まごころ」に支えられてある。
「みやび心」とは、「まごころ」の芸術的表現と、和辻は、言う。
ここに、和辻の意義がある。
芸術的表現なのである。
ところが、西洋哲学に馴れた人は、それを理解出来ないのである。
哲学用語に、「みやび心」などという、表現を見出せないからである。
この「みやび心」という言葉を、外国語に、どのように翻訳するのかは、大和言葉で、理解した人の、理解度による。
たゆたい・・・という言葉なども、実に難しい。
ファジー・・・曖昧な・・・それも、ピンとこないのである。
我々はこの宣長の美学説に相当の敬意を払うべきである。
和辻
推古仏のあの素朴な神秘主義を裏付けるものは、宣長の意味での「物のあはれ」だと言えなくはない。
和辻
そこまで、辿るか・・・
更に、白鳳、天平の古典的な仏像、刹那の叫びたる叙情詩についても・・・と言う。
それ以後の、文化的なもの、皆に、行き渡るのである。
私は、それでは、万葉集からの伝統であるとも、言う。
すでに、物のあはれの伝統は、万葉集から、始まっていたのである。
日本人の心象風景である、あはれ、である。
その後の、文化全般に行き渡るもの・・・
しかし我々は、これらの芸術の根拠となれる「物のあはれ」が、それぞれに重大な特異性を持っていること、そうして平安朝のそれも他のおのおのに対して著しい特質を持つことを見逃すことができない。これらの特異性を眼中に置くとき、特に平安朝文芸の特質に親縁を持つ「物のあはれ」という言葉を、文芸一般の本意として立てることは、あるいは誤解を招きやすくはないかと疑われる。
和辻
確かに、そのようである。
誤解される。
私のように、文芸は、面白いか、面白くないか、で決めるという、タイプには、必要の無い、解釈である。
ただ、源氏物語を読んでいて、何となく、流れているモノ・・・
完全に、その正体が見えないけれど、何となく、感じ取るモノ・・・
そして、なんとなく、理解出来るモノ・・・なのである。
特に、物語にある、和歌の数々は、そのようである。
だが、和辻は、哲学として、観ている。
我々は宣長が反省すべくしてしなかった最後の根拠を考えてみなければならぬ。
和辻
そこまでは、考えていなかった・・・と言う人もいる。
反省すべくしてしなかった・・・モノとは・・・
それは、物のあはれ、モノという言葉についてだ。
宣長は「もの」という言葉を単に「ひろく言ふ時に添ふる語」とのみ解したが、しかしこの語は「ひろく言ふ」ものではあっても「添ふる語」ではない。「物いう」とは何らかの意味を言葉に現すことである。
和辻
和辻は、
「美しきもの」「悲しきもの」などの用法においては、「もの」は物象であると心的状態であるとを問わず、常に「或るもの」である。美しきものとはみの一般的な「もの」が美しきという限定を受けているにほかならない。かくのごとく「もの」は意味と物とのすべてを含んだ一般的な、限定せられる「もの」である。
と言う。
更に、
限定せられた何ものでもないとともに、また限定せられたもののすべである。
和辻
EsであるとともにAllesである。
「もののあはれ」とは、かくのごとき「もの」が持つところの「あはれ」――「もの」が限定された個々のものに現れるとともにその本来の限定せられざる「もの」に帰り行かんとする休むところなき動きーーにほかならぬであろう。
和辻
これを、たゆたい、というのである。
あるいは、ゆくりなく、なのである。
大和言葉とは、そのような言葉なのである。
一から究極まで、絶えず、休むことなく、動く心、なのである。
もの=あはれ、なのである。
もの、は、あはれ、なのである。