2014年05月28日

もののあわれについて675

和辻は、物語から引いて、
「物あはれ」は単に自然的な感情ではない。(たとえば嫉妬のごとき)むしろある程度に自然的な感情を克服した、心のひろい、大きい、同情のこころである。
と、なる。

「物のあはれを知り過す」のも「物のあはれ」を知るのではない。この「知り過す」というのは、深く知る意ではなく、さほどに感ずべきではないことにもさも感じたようにふるまって、そのために、深い体験を伴うべきことも軽易に、浮か浮かと経験して通ることである。
従ってその経験は多岐であっても、内容は浅い。たとえば移り気に多くの女を愛するものは、「なさけたるに似たれども然らず。まことには物のあはれ知らざるなり。・・・これをもかれをもまことにあはれと思はざるからにこそはあれ。
一人を愛する心の深さを知らぬものが、すなわちまことに「物のあはれ」を知らぬものが、多くの人に心を移すのである。これは感傷や享楽的態度を斥けた言葉と見られるであろう。従って「者のあはれ」は、感傷的ではない、真率な深い感情でなくてはならぬ。
和辻

少しく、難しい理屈になってきた。

感傷的ではない、真率な深い感情・・・
移ろい流されるような、感傷ではないということだ。
更に、真摯な深い心・・・

私は、感性という。

感性は、知性と理性と並ぶ、人間の能力である。

知性と理性を、引き離して、感性を特別に高めるのである。
その感性は、芸術、技芸、文芸によって、形となる。

これらの制限によって、「物のあはれ」は、世間的人情であり、寛いhumaneな感情であり、誇張感傷を脱した純な深い感情であることがわかる。従って「物のあはれ」を表現することは、それ自身すでに浄められた感情を表現することであり、それに自己を没入することは自己の浄められるゆえんであることもわかる。かくて彼が古典に認める「みやび心」「こよなくあはれ深き心」は、我らの仰望すべき理想となる。
和辻

本居宣長は、源氏物語を読み込むことで、その、物のあはれ、という心象風景を尋ねた。
そして、その物語の細部に、その心を見たのである。

みやび心、こよなくあはれ深き心・・・
それは、制限があって、成り立つ、心の浄化、浄めなのである。

もののあはれを感じることによって、心が、清められるのである。

私は、このエッセイの最初に、延々として、宣長の引用をして、書き付けた。
だが、それで、理解は出来ない。
つまり、それは、人それぞれの感性に、行き着くからである。

特に、西欧の哲学思考に馴れた人には、理解出来ないのである。
それは、言葉の世界の違いである。
事は、大和言葉の世界である。

大和言葉への、理解がなければ、考える手立てが無い。
西欧の哲学用語に、みやび、こよなくあはれ深き心、などは、見当たらないのである。

自分が理解出来ないものは、説明が悪いのだという、意識が、西欧の哲学思考に馴れた人には、ある。
更に、近代日本の哲学用語にも無いのである。

比べるものが無い。
ただし、大和言葉を知ることにより、比べることが出来る。

その、大和言葉を、低レベルなものだと、思い続けている人は、もののあはれを知る、よすがが無いと言うことだ。

哲学もそうだが、大和言葉も、知らずに生きることは出来る。
それは、個々人の教養に任せられる。

理解しない人に、無理に理解せよとは、言わないのである。
それが、また、もののあはれ、である。

しかし彼は果たして理想主義を説いているのであろうか。「物はかなきまことの情」が人生の奥底であり、そうして「物のあはれ」が純化された感情であるとすれば、その純化の力は人性の奥底たるまことの情に内在するのであるか。すなわち人性の奥底に帰ることが、浄化であり、純化であるのか。言い換えれば、彼のいわゆる人性の奥底は真実のSeinであるとともにSollenであるのか。彼はこの問題に答えておらぬ。
和辻

確かに、そうである。
宣長は、源氏物語の中に書かれている、用語を捉えて、それを根拠とする。
それは、つまり、紫式部の人生観であるといえる。

しかし彼は紫式部の人生観がいかなる根拠に立つかを観察しようとはしない。紫式部は彼にとって究極の権威であった。
和辻

源氏物語の、本意をとって、それをあらゆる、物語、詩歌の本意として、立てた。

我々はここに彼の究極の、彼の内に内在して彼の理解を導くところの、さらに進んでは紫式部を初め多くの文人に内在してその創作を導いたところの、一つの「理念」が反省せられているのを、見いだすことはできぬ。
和辻

確かに、そのようである。
だが、和辻は、更に、掘り下げて、それを観るのである。

平たく言えば、源氏物語を基本として、宣長は、物語、詩歌を、分析したのである。
すると、源氏物語は、紫式部の人生観によるとなる。

だが、問題がある。
源氏物語は、紫式部一人の書き手ではない。
多くの書き手が存在している。

その、多くの書き手の、一つにして、通じているもの・・・
それが、問題である。

勿論、和辻の分析を続ける。


posted by 天山 at 05:26| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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