2014年05月26日

もののあわれについて673

藤裏葉、を終わり、次に、若菜の巻に入る。
そこで、おおよそ、物語の半分を終えたので、少し、寄り道する。

和辻哲郎の、日本精神史研究の、「もののあはれ」について、を、読むことにする。

「もののあはれ」を文芸の本意として力説したのは、本居宣長の功績の一つである。彼は平安期の文芸、特に「源氏物語」の理解によって、この思想に到達した。文芸は道徳的教戒を目的とするものではない、また深遠なる哲理を説くものでもない、功利的な手段としてはそれは何の役にも立たぬ、ただ「もののあはれ」をうつせばその能事は終わるのである。しかしそこに文芸の独立があり価値がある。このことを儒教全盛の時代に、すなわち文芸を道徳と政治の手段として以上に価値づけなかった時代に、力強く彼が主張したことは、日本思想史上の画期的な出来事と言わなくてはならぬ。
和辻

ここで、思想と言っていることが、特徴である。
「もののあはれ」の思想なのである。

日本には、哲学、思想が無かったという言葉が、一時期言われたが・・・
それは、日本の哲学、思想を、見出す努力に欠けていた、あるいは、西欧の哲学、思想のみが、それであるという、思い込みのせいであった。

ただ「もののあはれ」をうつせばその能事は終わる・・・
今、現在の文芸も、そのようである。また、それであると、言ってよい。

そして、そこに、文芸の独立がある・・・
その通りだ。

文芸を道徳、政治の手段として以上に価値づけなかった・・・
その時代に、「もののあはれ」の思想を展開した、本居宣長の画期的な研究と理解である。

文芸をそのように、読んだ人がいなかったのである。
文芸に、ある別な光、それは、大いなる、光を与えたのである。

それ以後の、日本の文芸は、益々と盛んになり、そして、発展した。

世界初の小説、源氏物語の、理解を通して、文芸の世界の、しののめ、である。

さて、この、もののあはれ、について・・・

和辻も、本居宣長の引用をして、解説する。

「あはれ」とは、「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出る、嘆息の声」であり、「もの」とは、「物いふ、物語、物まうで、物見、物いみなどいふたぐひの物にてひろくいふ時に添ふる語」である。

従って、「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心を知りて、感ずる」を「物のあはれ」を知るという。

感ずるとは、「よき事にまれ、あしき事にまれ、心の動きて、ああはれと思はるること」である、「古今集」の漢文序に「感鬼神」と書いたところを、仮名序に、「おに神をもあはれと思はせ」としたのは、この事を証明する。

後世「あはれ」という言葉に哀の字をあて、ただ悲哀の意にのみとるのは、正確な用法とは言えない。「あはれ」は悲哀に限らず、嬉しきこと、おもしろきこと、楽しきこと、おかしきこと、すべて嗚呼と感嘆されるものを皆意味している。

「あはれに嬉しく」「あはれにおかしく」というごとき用法は常に見るものである。ただしかし、「人の情のさまざまに感ずる中に、うれしきこと、をかしきことなどには、感ずること深かからず、ただ悲しきこと憂きこと恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずることこよなく深きわざなるが故に、しか深き方をとりわきて」、特に「あはれ」という場合がある。そこから「あはれ」すなわち「哀」の用語法が生まれたのである。
和辻

上記は、本居宣長の文を引用して、書き綴ったものである。

哲理、道徳の他に、感情というものを、取り出したのである。
それは、情緒である。
そして、それは、独立してあるものだとの、見解である。

通常の、嬉しくて、悲しくて、おかしくて、が、更に、言葉に表すことが出来ない感情に至り、「あはれ」という言葉が、付いたのである。

何事につけても、言い表しえない、感情的、情緒的、感嘆の際に、日本人は、「あはれ」を使うのである。

それを、一つの思想にまで、探り当てたという、宣長の研究、理解が、画期的だったのである。

彼は文芸の典型としての「源氏物語」が、「特に人の感ずべきことのかぎりを、さまざまに書き現して、あはれを見せたるもの」であると言った。そうしてこの物語をよむ人の心持は、物語に描かれた事を「今のわが身にひきあて、なずらへて」物語中の人物の「物のあはれをも思ひやり、おのが身のうへをもそれに比べ見て、物のあはれを知り、憂きをも思ひ慰むる」にあると言った。

すなわち表現される「物のあはれ」に同感し、憂きを慰め、あるいは「心のはるる」体験のうちに、美意識は成立するわけである。
和辻

が、表現された「物のあはれ」は、いかなる根拠によって「心をはれ」させ、「うきを慰める」のであるか。また晴れた心の晴朗さ、慰められた心の和やかさは、憂きに閉じた心よりもはるかに高められ浄められていると見てよいのであろうか。よいとすれば、表現された「物のあはれ」は、何ゆえに読者の心を和らげ、高め、浄化する力を持つのであるか。これらの疑問を解くことなくしては、「物のあはれ」によって文芸の独立性を確立しようとする彼の試みは、無根拠に終わると言わなくてはならぬ。
和辻

ここからが、宣長の、もののあはれ、の思想としての、展開となる。
それは、決して、難解なものではない。
実に、単純素朴なものである。

そして、単純で素朴であるから、それは、また立派な思想になるのである。

誰一人として、解らぬ思想は、思想ではない。
まして、哲学でも、無い。

文芸としての、物語、物語としての、物のあはれへの道。
どれ程に巧みになっても、源氏物語に戻る行為が必要になる。

更に、日本の文芸の道の大元には、歌の道がある。
この歌心についても、宣長は、源氏物語に、歌の道を見ている。




posted by 天山 at 07:28| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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