2014年05月20日

霊学157

単なる表象は、単一の感覚活動によっても生じさせることができます。しかし判断になりますと、単一の感覚だけではなく、そこに他の感覚が同時に協働して、共感覚になったときはじめて可能になります。存在の承認と否認、自分自身との関係のあるなしは、人間が諸感覚を協働させて、あるものに向き合ったときにはじめて、問題になりうるのです。
高橋

シュタイナーは、この表象と判断との関係が、イマギナツィオン、霊視の場合に、重要な意味を持つことに注目した。

体的、魂的な存在としての人間、いいかえると、時間と空間のなかに生きている人間は、身体という鏡に映して、自分の意識を目覚めさせています。人間にこの身体の鏡がなかったら、自分の魂は見えません。ところが身体、もしくは脳細胞という鏡は、どこまでも鏡ですから、鏡のなかに映っている像が現実そのものではないように、脳細胞が魂という実体を生み出しているのではなく、脳細胞はどこまでも魂の存在を映し出している単なる鏡にすぎません。しかし鏡がこわれていたら、像がゆがんでしまうように、脳細胞が十分に機能しなかったら、人間の魂も十分に意識化されません。
高橋

私は、ここで言う、魂という言葉を、心と、置いている。
魂は、また、別物なのである。

だが、ここでは、そのまま受け入れる。

脳細胞が、十分に機能しなれければ、その超感覚的世界の認識も、危ういのである。

マルクス主義の反映理論は、外なる現実世界が脳細胞に映し出されて、意識化するわけですから、脳細胞がなくても、現実世界は存在する、と考えて、魂そのものが現実世界のほかに存在しているとはまったく考えません。
しかし、シュタイナーのいう反映理論は、そうではなく、魂の現実を映し出すのが脳細胞だ、という考えでした。そして脳細胞という鏡に映し出されているかぎりの人間の魂は、表象(または思考)、感情、意志という三つのはたらきから成り立っています。そして表象、感情、意志のうち、肉体を背負った私たちにとっては、表象がもっとも意識にとって明るいはたらきです。感情になりますと、かなり混沌として薄明かりであり、意志は意識にとってはまったくの闇です。私たちは意志を意識化できずに暮らしています。
高橋

そこで、明るい表象を、今までの日常生活の中で体験したことのないような方向で、働かせ、そこに新しい内容を盛り込むと、その表象は、今までとは違った仕方で、自分の存在に作用する。

そして、感情と、意志に、今までとは違った刺激を与える。
その結果、日常的な魂全体のあり方が、微妙に変化する。

ユングは、それを、能動的構想力と呼んだ。

そのエネルギーとは、判断と愛憎の力のことです。つまりその人間の時間世界から、過去と未来から来るエネルギーなのです。
高橋

シュタイナーの考え方を理解するためには、その使用する言葉の意味を、一つ一つ、解釈してゆかなければならない。
実に、面倒なことだ。

突然のように、エネルギーとは、判断と愛憎のことだ・・・
とは、何か・・・

そして、それが、エーテル体の体験ということになる。

普通、エーテル体とは、人間の肉体とほとんど一つになっていますから、エーテル体だけを体験することはできません。そしてそれを無理に体験しようとすると、知らず知らず物質的、肉体的な次元でそれを体験しようとしています。
高橋

しかし、ユングが能動的構想力といい、シュタイナーがマギナツィオンというときのエーテル体は、むしろエーテル体による表象と思考のことなのです。エーテル体そのものではなく、エーテル体がもっている表象能力をいうのです。
高橋

このエーテル的表象は、エーテル体に外から刺激を与えることによっても生じさせることができます。たとえばドラックや催眠術などを用いる場合がそれにあてはまりますが、そうすると、それはふたたび受動的な状態でイマギツィオンを体験することになってしまいますから、シュタイナーの立場からいうと、それでは判断の行為にならないのです。
高橋

ということで・・・
エーテル体とは、私の言葉では、幽体のことである。

それを説明するには、夢の世界が、最も手っ取り早いのである。

勿論、シュタイナーも、それを説明している。

エーテル体による表象体験と肉体による表象体験とはまったく違うのです。夢の体験もエーテル体的な体験に属します。
高橋

夢に対して意識的であろうとすることは、すでにオカルト的な生活に入ることなのです。ただ夢の場合に大事なのは、個々の内容にあまりこだわらないことです。
高橋

大事なのはドラマ的な性格であって、個々のイメージではありません。
高橋

強烈な夢などは、象徴となる。
そして、感情に強く働く。
シュタイナーの霊視というのは、そういう性格を持つという。

イマギツィオンによって体験されるものは、時間の空間化、自分の内なる世界の象徴化なのです。ですから、この場合の表象は、もはや判断とも愛憎とも切り離せない、深い多層構造をもっているのです。
高橋

ここまでの、説明でも、私は、あまり理解できないのである。
霊視・・・
それは、エーテル体の単独な働きと理解する。

そして、それが、能動的に行なわれることが、大切であると、シュタイナーは言うと、理解する。

だが、実際、シュタイナーの考え方の最後まで、眺めると、それは、多く様々に、言われ続けてきたことなのである。
特別、新しいことではない。

ところが・・・
シュタイナー哲学は、とてつもない哲学への、歩みを踏み出したとのこと。

霊視について、簡単に言うと、幽体が、幽界とつながり、その幽界の様を見る、聞くということであり、そこには、亡き人も現れるし、知らない亡き人も現れる。
更に、よく解らない、模様や状況が現れる。

健康な人は、夢を忘れる。
特別なことと、思わずに過ごしている。

その幽体は、肉体と同じ容姿をしている。
死んで、そのままの状態を幽霊と言う。

シュタイナーの語り尽くす姿勢は、評価するが・・・
確実に、指導者が必要なことと、あまり、深入りしないことである。
何故か・・・

シュタイナーの観た、または、情報を得た霊界、超感覚的世界が、何処からのものか、解らないからである。




posted by 天山 at 06:18| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。