2014年05月18日

国を愛して何が悪い133

社会の状態が変化して武士道に反対なるのみではなく敵対的とさえなりたる今日は、その名誉ある葬送の準備をすべき時である。騎士道の死したる時を指摘するの困難は、その開始の正確なる時を決定するの困難なるがごとくである。
ミラー博士は曰く、騎士道はフランスのアンリ二世が武芸仕合で殺されし1559年をもって公然廃止されたと。我が国においては1870年明治3年、廃藩置県の詔勅が武士道の弔鐘を報ずる信号であった。
その五年後公布せられし廃刀令は、「代価なくして得る人生の恩寵、低廉なる国防、男らしき情操と英雄的なる事業の保ボ(女偏に母)」たりし旧時代を鳴り送りて、「詭弁家、経済家、計算家」の新時代を鳴り迎えた。
新渡戸 改行は、私。

武士道の終わりを言うが・・・
しかし、新渡戸は、その続きを言う。

要するに、時代が武士を必要としなくなった。
しかし、果たして、その精神も、共々に、破壊されたか・・・
そんなことは、無いのである。

活力を与えるものは精神でありそれなくしては最良の器具もほとんど益するところがない、という陳腐の言を繰り返す必要はない。最も進歩せる拳砲も自ら発射せず、最も近代的なる教育制度も臆病者を勇士と成すをえない。否! 鴨緑江において、朝鮮および満州において戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に撃ちつつある我らが父祖の威霊である。

これらの霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに見える。最も進んだ思想の日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から現れる。名誉、勇気、その他のすべての武徳の偉大なる遺産は、クラム教授の誠に適切に表現したるがごとく、「吾人の信託財産たるに過ぎず、死者ならびに将来の子孫より奪うべからざる秩禄」である。
しかして現在の命ずるところはこの遺産を護りて古来の精神の一点一画をも害わざることであり、未来の命ずるところはその範囲を拡大して人生のすべての行動および関係に応用するにある。
新渡戸 改行は、私。

応用するにある・・・
つまり、武士道は、形を変えて、残り続けるのである。

封建社会の道徳は、崩壊する。そして、新しい新道徳が現れると言う者、多数。
しかし、新しい道徳とは、何か・・・
道徳の根源的様態は、変わらない。
一度築かれて、成ったものは、伝統として、脈々と生き続ける。

しかし、新渡戸は、それでも、
日本人の心によって証せられかつ諒解せられたるものとしての神の国の種子は、その花を武士道に咲かせた。悲しむべしその十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある。しかして吾人はあらゆる方向に向って美と光明、力と慰籍の他の原泉を求めているが、いまだにこれに代わるべきものを見出さないのである。
と、言う。

功利主義および唯物主義に拮抗するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみであり、これに比すれば武士道は「煙れる亜麻」のごとくであることを告白せざるをえない。
新渡戸

倫理体系・・・
西欧の思想である。
武士道は、そのような言葉の世界を必要としなかった。

更に、新渡戸は、キリスト教徒らしく、
しかしメシアはこれを消すことなく、これを煽いで焔となすと宣言した。メシアの先駆たるへブルの預言者たち、なかんずくイザヤ、エレミア、アモス、およびハバククらと同じく、武士道は特に治者、公人および国民の道徳的行為に重きを置いた。これに反しキリストの道徳のほとんど専ら個人、ならびに個人的にキリストを信ずる者に関するものであるから、個人主義が道徳的要素たる資格において勢力を増すにしたがい、実際的適用の範囲を拡大するであろう。
新渡戸

当時は、である。
現在は、そのキリスト教も、不案内である。

少し、また、新渡戸は、理屈を書き付けるが・・・

まだ、キリスト教が、幾つかの段階の盛りだった頃である。
それらを元に、武士道を対置して考えた功績は、大きい。

最後に、新渡戸は、

武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない。しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃シ(土偏に止)を越えて長く活くるであろう。その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。百世の後その習慣が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。―――
新渡戸

ロマンチストである。

キリスト教徒として、武士道を英語にて、書きつけた功績・・・
そして、その理解を得た、新渡戸の、武士道は、傑作である。

矢張り、言葉の力を見せ付けられる。
この、日本の風土からなる、曖昧で、たゆたう心を、言葉で明確に提示する必要が、あったのである。

それぞれ、具体的に語る口調は、欧米の人たちの心を得た。

キリスト教という、体系的哲学により、新渡戸は、日本人を振り返り観ることが出来たと思われる。
それから、百年以上を経た現在・・・

果たして、武士道を誰か、語るか・・・
それは、懐古になるのではないか。
私も解らない。

ただ、武士道を心に抱く人のいることは、知っている。
その行為にも、武士道が生きている人がいる。

武士、もののふ、という言葉は、大和言葉である。
封建時代の花・・・
よくぞ、言ったものである。


posted by 天山 at 06:29| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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