2014年05月12日

国を愛して何が悪い131

我が国におけるキリスト教伝道事業失敗の一原因は、宣教師の大半が我が国の歴史について全然無知なることにある。或る者は言う、「異教徒の記録などに頓着する必要があろうか」とーーーその結果として彼らの宗教をば、吾人ならびに吾人の先祖が過去数世紀にわたりて継承しきたれる思索の慣習から切り離してしまうのである。
新渡戸

痛烈な宣教師に対する、批判がはじまる。
その傲慢不遜である。
新渡戸のような、キリスト教徒によって、はじめて、日本にキリスト教というものの、姿が提示されたと、考える。

また、内村鑑三のように・・・

一国民の歴史を嘲る?―――彼らはいかなる民族の経歴、何らかの記録を所有せざるもっとも遅れたるアフリカ原住民の経歴でさえも、神御自身の手によりて書かれたる人類一般史の一ページをなすものたるを知らないのである。滅亡したる種族さえも、具眼の士によりて判読せらるべき古文書である。
新渡戸

ここで、新渡戸も、また、キリスト教の世界的歩みに加担する。
そして、キリスト教の普遍的な様を、語るのである。
それは、それで、評価していいが・・・

哲学的かつ敬虔なる心には各人種は神の書きたまいし記号であっても或いは黒く或いは白く、彼らの皮膚の色のごとく明らかに跡を辿りうる。もしこの比喩にして佳ならんか、黄色人種は金色の象形文字をもって記されたる貴重の一ページを成すものである!
新渡戸

これは、キリスト教の伝道における心構えを正したものである。

一国民の過去の経歴を無視して、宣教師らはキリスト教は新宗教だと要求する。しかるに私の考えでは、それは「古き古き物語」であって、もし理解しうべき言葉を持って提供せらるるならば、すなわち一国民がその道徳的発達上熟知する語彙をもって表現せらるるならば、人種もしくは民族のいかんを問わず、その心にたやすく宿りうるものである。
新渡戸

その良い例が、秀吉時代の、キリシタンである。
天主教と言う。
当時の日本の言葉を持って、布教に当たった。

そうして、長崎を植民地化し、更に、九州全域を治めようとした。
それに気付いた、秀吉は、即座に、キリシタン禁止令を出す。

当時のキリシタンは、イエズス会、つまり、カトリックである。
敗戦後に入って来た、キリスト教は、耶蘇教と呼ばれる、プロテスタント系である。

アメリカ的もしくはイギリス的形式のキリスト教―――キリストの恩寵と純粋よりもむしろ多くのアングロ・サクソン的恣意妄想を含むキリスト教―――は、武士道の幹に接木するには貧弱なる芽である。新信仰の宣伝者たる者は幹、根、枝を全部根こそぎして、福音の種子を荒地に播くことをなすべきであるか? かくのごとき英雄的方法は、―――ハワイでは可能であるかもしれない。
新渡戸

ハワイでは、戦闘的に教会が、富を搾取し、原住民の絶滅を計ったのである。
実に、野蛮な、アングロ・サクソン的方法にて、ハワイを乗っ取った。

新渡戸は、敬虔なキリスト者である、ジョエットの言葉を引用する。

「人は世界を異教徒とキリスト教徒とに分かち、しかして前者に幾ばくの善が隠されているか、または後者に幾ばくの悪が混じっているかを考察しない。彼らは自己の最善なる部分をば隣人の最悪なる部分と比較し、キリスト教の理想をギリシャもしくは東洋の腐敗と比較する。彼らは公平を求めず、かえって自己の宗教の美点として言われうるすべてのことと、他の形式の宗教を貶すがために言われうるすべてのこととを集めてもって満足している」

これは、今も、行なわれている。
私は、オーストラリアで、それを目の当たりにした。

だが、日本に西欧が入って来たと共に、キリスト教の影響も大であった。

だから、新渡戸も、
しかしながら、個人的にはいかなる誤謬が犯されたにもせよ、彼ら宣教師の信ずる宗教の根本的原理は、吾人が武士道の将来を考えるについて計算に入れるを要する一勢力たることは疑いがない。武士道の日はすでに数えられたように思われる。その将来を示す不吉の微候が空にある。微候ばかりではなく、強大なる諸勢力が働いてこれを脅かしつつある。
新渡戸

つまり、武士道の将来である。
それは、最後の章である、第十七章にある。

その前に、少しばかり書く。
キリスト教とは、実に、大きな矛盾を抱えている宗教である。

世界的宗教となれども、その排他的、非寛容は、未だに、強く強く残る。
宣教師の個人的性格を通り越して、キリスト教の本体が存在する。

その元は、ユダヤ民族の神の信仰、ユダヤ教から、出た。
一民族の宗教であるから、民族信仰であるが・・・
キリスト教は、それを踏まえて、世界的宗教に成り上がったのである。

更には、同じ聖典を持つ、イスラム教である。
皆、いずれも、排他的、非寛容の宗教である。

そして、それらが、世界の大戦の主たる、原因ともなっている。
更に、キリスト教に付きまとう、白人主義というものである。
それは、差別主義の最たるものである。

民族差別、人種差別は、そこから発した。
その底には、実に傲慢不遜な精神が宿る。

それが、支配欲として、表現される。
だから・・・
世界は、混迷する。

武士道という、情緒とは、まさに異質である。
江戸時代の、身分差別は、将軍により、定められた。
一番上が、無事である。
しかし、その次が、士農工商という、最も多く存在する、農民が次である。

労働者が、一番であるとは、共産主義にあるが・・・
それも、別物である。

共産主義には、人間として、欠けてはならない、情緒が存在しない。
理念だけである。

それは、見事に、滅び去ったが。


posted by 天山 at 04:59| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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