2014年05月11日

国を愛して何が悪い130

王政復古の暴風と国民的維新の旋風との中を我が国船の舵取りし大政治家たちは、武士道以外何らの道徳的教訓を知らざりし人々であった。
新渡戸

確かに、そのようである。
規範は、武士道より、出でたものだった。
その心意気も、である。

近頃二、三の著者は新日本の建設に対しキリスト教宣教師が著大なる割合の貢献をなしたということを証明しようと試みた。・・・しかし右の名誉はいまだ善良なる宣教師たちに授与せられ難きものである。
新渡戸

キリスト教徒である、新渡戸は、宣教師たちの、活動を評価しつつも、
聖霊の活動は確実であるが神秘的であって、なお神聖なる秘密の中に隠されている。
とのことだ。

更に、明確に、
否、今日までのところキリスト教伝道が新日本の性格形成上貢献したるところはほとんど見られない。
と、断言する。

結局、日本人を動かしたものは、純粋無雑の武士道であった、と言う。

極東を研究し観察した、ヘンリー・ノーマンの言葉。
日本が、他の東洋専制国と異なる唯一の点は、
従来人類の案出したる名誉の掟の中最も厳格なる、最も高き、最も正確なるものが、その国民の間に支配的勢力を有すること・・・

新日本の原動力に触れた言葉であると、新渡戸は言う。

つまり、武士道という以外には、答えられないのだ。
儒学でもない、道教でもない、仏教でもない、武士道という道である。

日本にて、独自に生成発展した道である。
日本文化の、すべてを包括し、包容して、成り立った道である。

今まで、紹介してきた、新渡戸の武士道の中に、すべて存在しているものである。

東洋の制度ならびに人民をくわしく観察したるタウンゼント氏は記して曰く「我々はいかにヨーロッパが日本に影響したかを日常聞かされて、この島国の変化はまったく自己発生的であったことを忘れる。ヨーロッパ人が日本を教えたのではなく、日本は自己の発意をもってヨーロッパから文武の組織の方法を学び、それが今日までの成功をきたしたのである。数年前トルコがヨーロッパの大砲を輸入したごとく、日本はヨーロッパの機械科学を輸入した。正確に言えば、それは影響ではない、イギリスが中国から茶を買うことによりて影響を受けたと言えない限りは」と。氏はまた問うて言う、「日本を改造したるヨーロッパの使徒、哲学者、政治家もしくは扇動者がどこにあるか」と。
新渡戸

劣等国と見下されることを忍びえずとする名誉の感覚―――これが最も強き動機であった。殖産興業の考慮は、改革の過程において後より目覚めてきたのである。
新渡戸

名誉の感覚、つまり、武士道の感覚である。

欧米列強に追いつくこと・・・
それが、名誉の感覚だったのである。
そして、国が滅びるという、明確な感覚である。

独立自主の心意気である。
まさに、武士道である。

「矮小ジャップ」の身体に溢るる忍耐、不撓ならびに勇気は日露戦争において十分に証明せられた。「これ以上に忠君愛国の国民があろうか」とは、多くの人によりて発せられる質問である。これに対して「世界無比!」と吾人の誇りやかに答えうるは、これ武士道の賜である。
新渡戸

忠君愛国・・・
これは、まさに、武士道の本筋である。
忠君とは、それぞの武士の殿様である。
それが、国家の意識になる時、天皇となる。

そして、それが爆発したのは、明治維新の際である。
国を大きく変貌させる時に、王氏に、天皇に政をお返しする。

他方、我が国民の欠点短所に対しても武士道が多いに責任あることを承知するのは公平である。我が国民が深遠なる哲学を欠くことの原因はーーー我が青年の或る者は科学的研究においてすでに世界的名声を博したるにかかわらず、哲学の領域においてはいまだ何らの貢献をなしていないーーー武士道の教育制度において形而上学の訓練を閑却せしことに求められる。我が国民の感情に過ぎ、事に激しやすき性質に対しては、我々の名誉感に責任がある。もしまた外国人によりて往々非難せらるるごとき自負尊大が我が国民にありとすれば、それもまた名誉心の病的結果である。
新渡戸

ここでいう、哲学への貢献とは、西欧哲学に対するものである。
西欧哲学は、長い歴史がある。
ギリシャ哲学からのものだ。

武士の教育には、哲学的要素が欠けていたことは、否めないが・・・
それ以前から、哲学、理屈は、日本の文化の中では、嫌われていたものである。

言葉にせずとも、解ることが、第一だった。
新渡戸の言う、西欧の哲学に対する貢献は、全く無いのである。

その後、西欧の哲学が輸入された。
そして、それが、哲学なるものだとの、気付きがあった。
だが、それは、大変な努力を要した。
つまり、翻訳作業である。

武士道の感化は今日なお深く根差して強きものがあるが、しかしそれはすでに私の述べたるごとく、無意識的かつ沈黙の感化である。国民の心はその自ら継承しきれたる観念に対し訴えらるるところあれば、理由の何たるやを知らずして、これに応答する。それ故同一なる道徳観念にても、新しき訳語によって表現せられし場合と、旧き武士道の用語によって表現せられし場合とにおいて、その効果に莫大なる差異がある。
新渡戸

甚大なる差異が、問題である。
言葉一つで、全く別物になるのである。

だから、その訳語には、特別な感性が必要であった。
言葉に対する、感性である。

その際には、
武士道によりて涵養せられたる感情を喚起することによって、偉大なる道徳的革新が成就せられうる。
のである。

それが、また、キリスト教の宣教師の布教問題にも、なってくる。
新渡戸の、宣教師に対する、批判は、もっともな事である。
つづく・・・



posted by 天山 at 06:11| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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