アーマン
それらを、そのまま、記述する。
新約聖書のどの書についても、オリジナルは存在しない。
現存する写本は後世に作られ、しかも、そのほとんどが何世紀も後に筆写されたものである。
ギリシャ語の写本は何千冊も現存する。ちなみに、新約聖書の書のオリジナル・テキストは、すべてギリシャ語で書かれている。
すべての写本には間違いがある。書記がうっかり写し忘れた箇所もあれば、自分の勝手な都合に合わせて、意図的に改竄した箇所もある。(あるいは自分ではそのように意図したつもりがないまま、改竄している場合もある)。
現存する写本の中に、いくつ間違いがあるのか分らないが、何百、何千にのぼると思われる。少なくとも言えるのは、写本同士の内容の食い違いは、新約聖書を構成する言葉の総数を上回るほど多いということだ。
写本に見られる間違いの大部分は、取るに足りないものだ。昔の書記が、今日の大半の人たち同様、綴りを間違えることがあるというだけである。
しかし、いくつか重大な間違いもある。その一部は、節、章、場合によっては書全体の解釈を左右してしまう。また、書記の関心事が反映されているものもある。彼らが、身近に起きていた議論や論争を考慮して、内容に変更を加えているのだ。
本文批評の目的は、テキストの著者が何を書いたか見極め、なぜ書記がそのテキストを改竄したのか理解することである。(書記が書写していた状況を把握するために)。
この三百年間、学者が実に勤勉に本文批評を行なってきたにもかかわらず、彼らの意見の違いは埋まるどころか、白熱した議論が交わされてきた。それは真剣そのもので、極めて頭のいい学者たちが、オリジナル・テキストの内容をめぐって対立するときもあれば、おそらく私たちが、オリジナル・テキストの文言を知ることが、永久に叶わない箇所もある。
以上である。
しかし、信じる者は、騙される。
このようなことが、分っても、聖書は、神が霊感を与えて書かせた、御言葉だと、信じ込むのである。
一度、信じるという、信仰に入ると、後戻りできないようである。
と、いうより、信じていた方が、楽なのである。
その証拠に、何かを信じていた人が、それを捨てると、また、何か、信じるものを必要とする。
人間は、進化の過程で、そのように、不安症を持つに至ったと、思える。
それは、多くの情報により、我というものの、意識が、揺さぶられ、更に、不安に陥れられる、社会状況になっているからだ。
知らなければ済むことを、知ってしまった、人間。
何を知ったのか・・・
不安である。
そして、我というものを、信じないで、何か他のものに、心を込めるという、蒙昧である。
信仰とは、迷いの極地である。
そして、宗教団体は、その迷いを、暗示という手法を持って、自己暗示と、教義暗示付けにするのである。
人間は、繰り返しに、実に弱い者である。
宗教の教義は、その繰り返しの手法である。
勿論、私は、この程度の批判では、終わらない。
後々、信仰の無常性について、書くつもりである。
更に、私は、唯物論ではない。
唯心論でもない。
唯神論でもない。
唯仏論でもない。
だが、信仰心を否定するものではない。
信仰心とは、あらゆるものに対する、畏敬の念である。
つまり、命への畏敬の念である。
寛容で、排他的ではない信仰心こそ、人間を救うと信じる。
私も、そうして、信じているのである。
アーマン氏も、言う。
しかし、そうした事実は、彼らの信仰心を否定するものではない。なぜなら、彼らの信仰心は、神が人間に授けた聖書の言葉以外のものに根差しているからだ。それに、当然のことながら、私は、誰かを信仰から遠ざけようなどと考えたことは一度もない。私自身が信仰を捨てたのは、私たちの手元にある写本の内容が、互いに異なることを知ったからだと指摘する批評家は、単純に誤解しているだけであり、ばかばかしい限りだ。
私も、同じである。
教典、聖典と言われるものを、更に、教義といわれるものを、批判している。
批判とは、評論であり、更に、表現の自由と芸術活動である。
ただし、私は、論文ではない。
エッセイを書いている。
随筆とか、随想と言われる文である。
私は、寛容で、排他的ではない、宗教の訪れを待つ。
そして、それは、人類を救う。
明らかに、風土、民族、その他諸々が違えば、その宗教も違う。
しかし、信仰心は、同じである。
その、信仰心を認めること、それが、人類の救いになるのである。
妄想無しに、人生は、有り得ない。
皆々、人生を妄想の内に生きているのである。
その最大の証拠は、人間の大脳化である。