2014年05月08日

神仏は妄想である。476

聖書とは、何か・・・
旧約聖書は、伝承、神話に入る。

新約聖書は、捏造一色である。

更に、正典とは何か・・・誰が決めたのか・・・
その他の、外典と呼ばれるものは、何か・・・

偽書と、簡単に決め付けて、聖書以外の、文献を拒む人たちがいる。
正典入りしないが、数多くの、聖書の類が存在する。

キリスト教徒は、神の霊感によって、書かれたもの、それが、聖書だと言う。つまり、信じ込まされているのである。
そして、信じる者は、騙される。

この二千年の間、騙され続けてきたのである。

霊感を受けて書かれた聖書とは、私たちの手元にある聖書なのか? ある人たちが今でも主張しているように、ジェームズ王欽定聖書のことなのか? しかし、それはいくらなんでも無理がある。ジェームズ王の命を受けて翻訳家が聖書を訳す以前の何世紀もの間、キリスト教徒は誰も神の言葉に接することができなかったなんて言えるだろうか? 神は何を考えていたのだ? それなら、もっと後世の翻訳版を指すのだろうか? もしそうであるなら、ヘブライ語やギリシャ語のオリジナル・テキストが一つも現存せず、後世に作られた誤写だらけの写本しか残されていないという状況を、どう考えたらいいのだろうか?
アーマン

私も、驚いた。
オリジナル・テキストが無いとは・・・

アーマン氏は、更に
そもそもどうして神が、人類に語りかけたのだと確信できるだろうか? どの聖書に神の霊感が宿るのか特定する際、この疑問は、私のなかで大疑問となった。
と、言う。

疑問は、更に続く。
アーマン氏の、疑問を私が要約する。

イエスの死後、何十年後に、神が人々のために、特定の書物に、霊感を授けたなら、どうやって、後世の教父が、聖書を編纂する際、文書を正しく選び出したと、確かめられるだろう。

初期キリスト教の動静に関する、歴史研究にのめり込めば、世界各地で、大勢のキリスト教徒が、正典に採用すべきだとみなしていたものは、他の文書である事実を知るようになった。

逆に、正典に最終的に編入された、幾つかの文書が、他の宗派の指導者によって、時に何世紀もの間、拒否され続けたことも、認めざるを得ない。

幾つかの宗派では、「ヨハネの黙示録」は、謝った教えを含むとして、全面的に否定され、最終的に正典に組み入れられなかった「ペトロの黙示録」が受け入れられていた。

「ペトロによる福音書」を認めるキリスト教徒もいれば、「ヨハネによる福音書」を拒絶するキリスト教徒もいた。

現在は、聖書から外されている、「トマスによる福音書」が採用される場合もあった。

と、いうように、滅茶苦茶である。

私の手元にも、ユダの福音書や、モーゼの聖書・・・などあるが・・・

もし神が、霊感が宿った聖書の書を、そしてそれだけを、自分の教会が護持すべく采配をふるったのなら、なぜ三百年にもわたって、熾烈な論争と異議申し立てが止むことがなかったのだろうか? なぜ神は、そのような議論を、数週間できちんと終結させることなく、何世紀にもわたって続けさせたのだろう?
アーマン

司祭、牧師、その他、諸々が、祭壇の前、説教台で説く、聖書解釈・・・
大嘘である。

私は、多くのキリスト教指導者、カトリック、プロテスタントなどの、文書を読んだが、皆、聖書は、神の霊感により、云々からはじまる。

だから、絶対的なものである。
ウソである。
皆々、人間の作り出したものである。
更には、権力によって、正典とされた数々の、文書である。

これについては、別に詳しく書くことにする。

問題の大きさからいえば、私たちが、神の啓示の言葉がどのようなものだったのか分らないことよりも、聖書に記された言葉が、神の啓示だと考えることのほうが深刻だ。加えて、現在私たちの手元にある聖書を、本当に聖典として認めたのかどうか、知ることもできない。正しい文書だけが聖書に収められていると、どうして言えるだろうか? 神から霊感を授けられた書など、他には存在しないと、どうして断言できるのだろうか?
アーマン

全く、その通りである。
私の言いたいことを、すべて言ってくれる。
さすがに、神学者である。

現在の聖書は、何と、16世紀に宗教改革に対抗して開かれた、トリエント公会議まで、いかなる公会議によっても、承認されたことはなかったのである。

この公会議は、当時広まっていた、「旧約聖書外典」を旧約正典から外そうとする、プロテスタントの運動に対抗して、これも同時に正典に入れることにしたのである。

突然、正典、聖典が、現れたのである。

更に、ユダヤ教に断りもなく・・・
著作権の最大の侵害である。

そこで、面白いのは、キリスト教を最大の利用しようとした、ローマ皇帝により、権力で、教会を統一されたということである。
その頃、ローマ教会が、最も力を持つ集団になっていたのである。

つまり、白人キリスト教徒である。
ローマカトリックと今でも、言われる。
ローマ人のキリスト教会である。

人間の欲望によって、生まれた、邪教、キリスト教である。

ここに至ると、ナザレのイエスの存在は、虚無になる。



posted by 天山 at 05:44| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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